【小説】あの夏の光(15)魂に形式を与える

小説

黒いファイルを託した後、極度の緊張の中で翌日を迎えた蒼太。図書室でひかりと対峙すると、彼女はファイルに「泣いてしまった」と告げ、蒼太の物語の世界を「信じられないくらい綺麗な部屋」だと純粋な共感で肯定する。ひかりは、ヒロイン名「ルカ」に隠された蒼太の秘めた願いをを温かい読解術で見抜く。そして、「続きを読みたい」という言葉に、蒼太は迷いを捨てて頷き、二人の本当の「対話」が始まった。

魂に形式を与える

僕たちの展示コンセプト、「たった一人のための物語展」は決まった。
だが、それはまだ、僕とひかりの頭の中にしか存在しない幻のようなものだった。
その幻に確かな輪郭を与えるため、僕たちはスケッチブックに具体的なレイアウトを描き出していく。

夏休みに入って数日が過ぎ、学校は完全に日常の喧騒を失っていた。
窓の外では、暴力的なまでの日差しがアスファルトを白く焼き、どこまでも高い青空に、真っ白な入道雲がそびえ立っている。
廊下を渡る風は、熱を孕んで肌にまとわりつくが、第二図書室の扉を閉めれば、そこには冷房の効いた、静謐な別世界が広がっていた。

「ここに、ガラスの部屋を作って…」
「この壁には、物語の一節を書き出して…」
「そして、中心には、あの『デミアン』の貸出カードを展示したい」

僕がイメージの骨格を描き、ひかりがそれに色と生命を与えていく。
僕たちの共同作業は、驚くほど順調だった。

「この、中心に置く本とカードを飾るための展示ケース。どうせなら、雰囲気のある古いやつ、使いたいよね」

ひかりのその一言で、僕たちは書庫のさらに奥、普段は誰も立ち入らない古い備品が眠る倉庫へと忍び込んだ。
埃と時間の匂いが支配する静かな場所。
太陽が照りつける廊下を抜け、一番突き当たりにある重い鉄の扉を開ける。
そこは冷房が届かない、濃密な埃と時間の匂いが支配する静かな場所だった。
そこで僕たちは、運命のように、それを見つけた。
部屋の隅で白い布をかぶせられた、一台のアンティークの書見台とガラスの展示ケース。
マホガニーの深い色合いと、真鍮のくすんだ輝きは、僕たちの展示の心臓部になるべきだと雄弁に語っていた。

「これだ! 絶対にこれを使おう!」
ひかりは目を輝かせた。

だが、その備品には一枚の札がかかっていた。
『備品管理室・許可なく、持ち出しを禁ず 葛城』
葛城先生。
古典の教師であり、学校の規律を文字通り体現する人物。
服装指導から生徒会の議事録に至るまで、前例と形式を重んじるその厳格さは、全校生徒に恐れられていた。
「よし、わたし、交渉してくる!」
ひかりは少しも怯まなかった。
彼女は、得意の明るさと情熱で正面からぶつかれば、どんな壁でも壊せると信じているようだった。
僕は不安を覚えながらも、彼女を止めることができなかった。

結果は、惨敗だった。
十分後、秘密基地である第二図書室に戻ってきたひかりの顔は、見たことがないほど曇っていた。
「……だめだった」
彼女は机に突っ伏した。
「『前例がない』の一点張り。『生徒の思いつきに、学校の貴重な備品は貸せない』って。石頭なんだもん、あの先生……」

ひかりの太陽のようなエネルギーが、分厚い現実の壁に跳ね返された瞬間だった。
その光景は、僕の心の奥底に眠っていた古い記憶の扉をこじ開けた。
――ああ、この光景を、僕は知っている。
幼い僕が、夕焼けの空をニジイロクワガタの色だと感動を伝えた時、父は言った。
「お前の感傷だ」と。
僕の詩的な情緒が、父の冷徹な論理によってあっけなく解体されてしまった、あの無力感。
ひかりの純粋な願いが、葛城先生の「正論」の前に色褪せていく。
それは、かつて父の前で立ち尽くした、幼い僕自身の再演だった。

僕がいたたまれない気持ちで彼女を見つめていると、背後でパタン、と本を閉じる音がした。
いつからそこにいたのか、柳先生が書架の影から姿を現した。

「……高槻さん。君のその『熱意』は立派だが、そのままじゃ葛城には届かんよ」
「先生……聞いてたんですか?」

先生は僕たちのスケッチブックを指先で弾き、窓の外の青空を見上げた。
「お前たちが抱えているその、他人には見せられない熱量。それを私は仮に『魂』と呼んでいる。だがな、それはそのまま誰かにぶつければ、相手は大火傷をするか、気味悪がって逃げるだけだ。……だからこそ、必要なのが『形式』だ」

「形式……」

「例えば、夜空に散らばる光の粒を、線で結んで名前をつける。そうして初めて、人はそれを『星座』として認識し、愛でることができるようになる。わかるか? 葛城のような人間には、お前たちの魂をそのまま見せるな。あいつが理解できる言葉、つまり『形式』の中に封じ込めて差し出すんだ。形式が美しければ美しいほど、その中にある魂の切実さは、鋭い針となってあいつの胸に刺さるだろう」

先生はニヤリと笑うと、それだけ言い残して廊下へ消えていった。
静まり返った図書室で、僕は先生が指差した虚空を見つめていた。

(……形式……星座)

その言葉が、僕の中で忌まわしい記憶と結びついた。
僕を解体してきた、あの父の「論理」。
僕が最も遠ざけてきた、冷たく鋭い武器。
けれど、柳先生は言った。
それを「星座の線」にしろ、と。

守りたい、と思った。
あの日の僕のように、ひかりのこの純粋な輝きを、色褪せさせてたまるか。
喉の奥に詰まっていた砂を無理やり飲み込むような違和感。
父譲りのその「論理」を使うことは、僕にとって毒を飲むことと同じだった。

だが、今は、ひかりを守るためなら、その毒を武器に変える。
僕は、自分がずっと「敵」だと見なしてきた力を、初めて「守るための剣」として手に取ることを決意した。
「……高槻さん。もう一度、行こう」

僕はスケッチブックの新しいページを開き、再交渉のための「設計図」を描き始めた。
「今度は、高槻さんの情熱を、あの先生が理解できる言葉に『翻訳』して持っていくんだ。
それが、僕たちの魂を守るための『形式』になる」 ひかりが顔を上げ、驚いたように僕を見つめる。

僕は、自分の中に湧き上がる冷徹な思考の冴えを、初めて誇らしく感じていた。
それは、ひかりの情緒を守るための、論理の鎧と剣だった。
僕は一気に企画書を書き上げ、ノートパソコンで清書して、プリントアウトした。

「まず、僕たちの企画がただの思いつきではないことを証明する。あの『デミアン』の貸出カードという具体的な実績。それから、古典文学が持つ『普遍的価値』……。前例がないなら、これを新しい『良き前例』に、伝統の創始者になってほしいと持ちかけるんだ」

僕は、ひかりに完成した企画書を見せながら、言うべきセリフの要点、見せるべき資料、そして話す順番まで、すべてを組み立てた。
ひかりは、僕が描き出した緻密な設計図を、息をのんで見つめていた
「…すごい。神木君、なんで、そんなことまで…」
「…本で読んだだけだよ。交渉術や、説得の技術について」

それは嘘ではなかった。
だが、本当の理由は違った。
僕の孤独な読書は、世界から心を閉ざすための盾だったはずが、今、大切な誰かを守るための剣に変わろうとしていた。

翌日、僕たちは再び葛城先生の元へ向かった。
今度は二人で。
ひかりは僕が組み立てた「脚本」通りに、冷静に、しかし確かな熱を秘めた声でプレゼンテーションを始めた。
差し出された企画書を、葛城先生は無言でめくっていく。
一枚、また一枚と。
先生の視線は、僕が仕掛けた「論理の網」をなぞっていく。
あるページで、先生の指先がふと止まった。
そこには、この企画を認めないことがいかに学校の「伝統」を損なうかという、僕が書いた最も卑怯で、最も強力な一節があった。

葛城先生の表情が変わった。
懐疑的だった目が、やがて感嘆の色さえ浮かべていた。
「……単なる思いつきによる展示かと思ったが、違うようだな。管理上の懸念まで先回りして対策を立てている。何より、この古い貸出カードに『学校の伝統』という価値を見出した視点は、認めざるを得ない」
「…面白い。君たちの企画には筋が通っている。…よかろう。特例として、貸し出しを許可する」

職員室を出て、廊下の角を曲がった瞬間、ひかりは「やった!」と叫び、僕の腕を掴んでぶんぶんと振った。
「すごいよ、神木君! まるで魔法みたい! 私がただ正面から壁にぶつかるだけの『突撃兵』だとしたら、神木君は全部の動きを読んで、完璧な指示をくれる『軍師』だね!」

「軍師」か。
ひかりは、僕が彼女を守るために「論理」を使いこなしたことを、最大限の敬意で称えてくれている。それは痛いほど伝わってきた。
けれど、その言葉は僕の胸の奥を、ちりりと焼いた。
(……僕は今、父さんと同じ顔をしていなかっただろうか)
相手の弱点を分析し、最適解という名の網を仕掛けて、思い通りに誘導する。
それはかつて僕の情緒を完報なきまでに叩き潰した、あの「論理の怪物」の手法そのものではなかったか。
自分が手にした剣が、自分を傷つけてきた凶器と同じ形をしていることに、僕は言いようのない薄ら寒さを感じていた。

「神木君? どうしたの、そんな難しい顔して」

ひかりが僕の顔を覗き込む。
その瞳に映る僕は、怪物などではなく、ただの不器用なクラスメイトの姿だった。

「……いや。軍師なんて、そんな立派なもんじゃないよ」
僕は誤魔化すように視線を逸らした。
たとえこの力が父譲りの呪いだったとしても、今はそれでいい。
彼女が笑っている。
その事実だけが、僕がこの毒を飲み下したことへの、最高の免罪符だった。

――いや、これは毒なんかじゃない。

彼女の笑顔を見つめるうちに、僕の中のわだかまりが、すうっと透き通っていくのを感じた。
かつて僕の小さな世界を壊した「論理」が、今、ひかりの「情緒」を守り抜き、現実という分厚い壁を射抜いた。
父と同じ手法を使ったはずなのに、その先に咲いた景色は、あの日の冷たい夕暮れとは正反対の、温かな色をしていた。

それは、僕が「情緒 vs 論理」という長年の呪縛から解き放たれ、両方を自分の中に統合し、力へと昇華させた瞬間だった。
僕の体から、長年背負っていた重い鎧が剥がれ落ちたような、静かで深い解放感が広がった。

夕焼け空の虹を、科学の言葉で語ること。
その二つは、敵対するものじゃなかったんだ。
大切なものを守るために、どちらの言葉も使うことができる。
父さん、僕はあなたの世界を、少しだけ理解できたのかもしれない。
そして、高槻さん。
僕たちは、今、初めて、君の言葉と僕の言葉で「対話」ができたんだ。

僕たちは顔を見合わせた。
二人ならばどんな壁でも乗り越えられるという、確かな信頼の光が宿っていた。

この成功体験は、僕の創作の回路を再び熱くした。
ひかりと力を合わせて壁を乗り越えられた事実と、彼女が僕の魂を肯定してくれたこと。
その二つが揃った今、僕の創作はもう孤独な自己防衛ではない。

誰にも理解されないかもしれないという不安を乗り越えて、目の前にいるたった一人の読者のために、物語の続きを書きたいと強く思った。
この溢れる興奮を、『リクのスケッチブック』の新しい章へと注ぎ込まなければならない。

夕暮れの帰り道。
沈みゆく太陽が、街を鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。
昼間の暴力的な熱気が、少しずつ穏やかな夜の気配へと溶け込んでいく。
僕は急いで自室へ戻り、ノートパソコンを開いた。
新しい物語の扉が、今、音を立てて開いたのだ。

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<バラバラだったリクとヒカリの持つ能力がひとつになる>

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