ひかりとの対話を経て、文化祭の展示コンセプトを「たった一人のための物語展」に定めた蒼太。しかし、厳格な葛城先生から備品の使用を却下され、二人は現実の壁に直面する。落胆するひかりを守るため、蒼太はかつて自分を傷つけた父譲りの「論理」を武器に企画書を作成し、見事再交渉に成功した。呪縛を力へと昇華させた蒼太は、たった一人の読者のために、物語の続きを書き始める。
閉じた星空と二人の笑い声
その夜、僕は書き上げたばかりの『ガラクタの星空』を、僕のサイトにアップロードした。
ひかりという現実の者へと手渡すラブレター。
それは同時に、Libというもう一人の共犯者への僕からの挑戦状でもあった。
僕たちの「第三の道」は間違っていないと。
僕たちは、確かに進んでいるのだと。
その証明のための物語だった。
数時間後。
その挑戦状への返信が届いた。
Lib: ほう。作者よ、今回の原稿、その筆に迷いがなくなったようだ。 以前のような、読者を拒絶し、自分を守るための過剰な虚飾が消え、言葉が真っ直ぐに「誰か」へ向かっている。主人公がついに、ガラクタの中から星を作り出すことを覚えたか。素晴らしい進歩だ。だが、忘れるな。それは、まだ、リクたち二人だけの閉じた星空だ。その光は、本当に外の世界まで届くのか? 次の展開を見せてもらおう。
Libの言葉を読み終えた後、僕は自分の指先を見つめた。
……そういえば、今回の執筆中、一度も手が止まらなかった。
以前なら、一文字打つごとに「こんな表現、誰かに笑われるんじゃないか」「Libにどう分析されるか」という自意識の泥沼に足を取られ、何度も消去キーを叩いていたはずなのに。
今回は違った。
僕の耳のすぐそばで、ひかりが「次はどうなるの?」と無邪気に急かしてくるような気がして、ただ彼女に物語の景色を見せたいという一心で、キーボードを叩き続けた。
誰かに「見られる」恐怖よりも、たった一人の「彼女に届けたい」という渇望が、僕の筆を迷いから解放していたのだ。
そして、「二人だけの閉じた星空」
Libのその言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さった。
僕とひかりが共有したあの美しい夜空は、まだ、僕たちの自己満足の産物でしかないのかもしれない。
ひかりからの温かい肯定。
Libからの鋭い問い。
その二つの翼を得て、僕の物語は、確かに動いている。
翌日の放課後。
カレンダーは8月に入り、夏休みも中盤に差し掛かっていた。
午後三時の校舎を、不意の夕立が激しく叩く。
開け放たれた廊下の窓から、熱せられたアスファルトが立ち上らせる、焦げたような雨の匂いが流れ込んできた。
窓のすぐ下にある花壇では、名も知らぬ青い花が、雨に打たれ激しく揺れている。
だが、雨は数分で上がり、雲の切れ間から差し込んだ強い光が、濡れた中庭を鏡のように輝かせている。
僕は新しく数ページを追加した黒いファイルを手に、僕たちのアトリエへと向かった。
以前のように、自分の魂を晒すような恐怖はない。
代わりに、そこにあったのは、自分の作品を一番信頼する共犯者に届ける、静かな高揚感だった。
ひかりは既にアトリエで、窓枠に和紙を貼る作業を進めていた。
湿気を帯びた空気を追い出すように回る古い扇風機が、首を振るたびにカタカタと乾いた音を立てている。
僕の姿を見つけると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「神木君!」
僕は黙って、黒いファイルを彼女の前に差し出した。
「…これ、続き」
「わ、本当! ありがとう!」
ひかりは宝物を受け取るかのように、そのファイルを両手で受け取った。
そして、僕の顔を覗き込むように尋ねた。
「ねえ、ここで、読んでも、いい?」
その問いに、僕の心臓は少しだけ跳ねた。
以前の僕なら、絶対に断っていただろう。
僕の魂の告白を読んでいる彼女の表情を、直視する勇気などなかったから。
だが、今は違った。
このガラクタに囲まれたアトリエは、僕たちの聖域だ。
ここでなら、大丈夫だ。
彼女が、僕の世界に触れるその瞬間を、僕も共犯者として見届けたい。
僕は自分でも驚くほど穏やかな声で、答えることができた。
「…うん、もちろん、いいよ」
雨上がりの湿った熱気が残る、放課後の静まり返ったアトリエ。
窓の外の木々からは、カナカナカナ……と、夕暮れを惜しむような蜩(ひぐらし)の声が聞こえ始めていた。
僕が渡した原稿は、A4のレポート用紙にして、たった数枚の薄さだ。
ひかりはファイルを大切そうに開き、最初の一枚に視線を落とした。
僕は、絵筆を洗う振りをしながら、背中でその気配を感じていた。
心臓の音がうるさい。
彼女が物語の世界に入り込んでから、まだ数秒も経っていないはずなのに。
「……くすっ」
不意に、静寂を破る小さな音が聞こえた。
忍び笑いのような、息の漏れる音。
僕はびくりと肩を震わせ、思わず振り返った。
ひかりは、ファイルを持ったまま口元を抑え、肩を小刻みに揺らしている。
まだ冒頭しか読んでいないはずなのに。
僕の視線に気づくと、彼女は悪戯が見つかった子供のような顔で、僕を見上げた。
「ねえ、神木君。この『灰色のローブのお爺さん』って……」
彼女は可笑しくてたまらないといった様子で、持っていたファイルを指差した。
「前の話にも出てきたけど。でも、やっぱり…」
「もしかして、柳先生でしょ?」
図星だった。
僕は言葉に詰まり、ただ瞬きをする。
ひかりは顔を赤くしながら、またくすくすと笑い出した。
「やっぱり! だって、言い方がそっくりなんだもん」
彼女は原稿の最初の一行、「面白い“足跡”が、見つかると、いいな」の文字を指先でなぞった。
「ふふっ、こんなキザで、でも優しい言い回し、あの先生しか言わないよ」
「……バレたか」
僕も照れ隠しに、そう返すのが精一杯だった。
その時、僕の中で何かが弾けた。
つられて、僕の口からも「ははっ」と乾いた笑いが漏れた。
一度漏れ出した笑いはもう止まらなかった。
二人の笑い声が、夕暮れのアトリエに反響する。
その振動は、かつて僕が世界から身を守るために築き上げた、冷たいガラスの壁を、内側から温かく粉砕していくようだった。
生まれて初めて、自分の創ったものを通して、誰かと笑い合っている。
恐怖も、不安も、いつの間にか消え失せていた。
僕たちの間に温かい空気が流れる。
僕のガラスの内側の世界の、その秘密の部屋の家具の配置図を、彼女はもう完全に理解している。
そして、それを笑って肯定してくれる。
それはLibとの知的な対話とも違う、もっと、ずっと温かくて心地よい魂の繋がりだった。
ひかりは物語を最後まで読み終えると、ファイルを閉じ、大切そうに胸に抱きしめた。
ひかりは物語を最後まで読み終えると、ゆっくりとファイルを閉じ、大切そうに胸に抱きしめた。
しばらくの間、彼女は何かを慈しむように目を閉じていたが、やがて顔を上げると、僕の目をまっすぐに見つめて言った。
「ありがとう、神木君。……なんだか、今までよりもリクくんとルカちゃんの声が、近くで聞こえる気がする」
「……近くに?」
僕の問いに、彼女は深く、深く頷いた。
「うん。言葉がね、すごく真っ直ぐに届くの。迷わずに私の心まで走ってきたみたいに。神木君、このお話、すごく好き」
「会えなかった兄妹の思いが、星空になるところ、泣きそうになったよ」
その言葉に、僕はまた自分の指先を見つめた。
……Libの言った通りだった。
彼女という「たった一人の読者」を信じて書いたことで、僕の言葉は、僕自身を守るための鎧であることをやめて、彼女の心に触れるための「声」に変わったのだ。
「……そっか。ガラクタの中から、星空を作ったんだね、二人で」
彼女は僕たちが、今、やろうとしていることと物語を重ねるように呟いた。
「うん。……私たちも、作れるよ。絶対に」
そして、彼女は最高の笑顔で、僕の目をまっすぐに見つめて言った。
「ありがとう、神木君。最高の設計図だよ」
彼女のその言葉。
それはLibの問い(二人だけの閉じた星空)への、僕たちからの最も力強い、内的な承認だった。
僕の物語を僕たちの現実の道標として受け取ってくれた、仲間からの最も力強い承認だ。
僕はチョークを握り直した。
もう迷いはない。
Libの問いに応えるために、僕の描くこのアトリエの森の先には、確かにまだ見ぬ「たった一人」が待っている。
アトリエの窓の外には、夕立に洗われて一段と深く澄んだ藍色の空が広がっていた。
一番星が、まだ明るい空の端で小さく瞬いている。
僕たちの閉じた星空は、今、確かに外の世界へと向かって、その最初の光を放ち始めていた。
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