【小説】あの夏の光(19)沈黙と三センチの距離

小説

共犯関係を深めた二人は、「予算ゼロ」の壁を前に、廃材を星空に変えるブリコラージュの手法へと辿り着く。 アトリエで壁画を前に「この光は届くのか」と足がすくむ蒼太だが、ひかりの「私が最初のひとりだから」という全肯定がその迷いを断ち切った。 捨てられたものたちが放つ微かな光を信じて、二人の創造は現実の形を帯び始めたが…

沈黙と三センチの距離

夏休みも終わりを迎えようとしている、ある日。
作業を始めて数時間が経ち、アトリエとして占拠した第二図書室の隅には、西日が琥珀色の液体のように深く沈殿していた。

和紙を貼る作業を一通り終えたひかりが、ふぅ、と小さく息を吐き、完成した窓枠の横に座り込んだ。「……神木君、ちょっと休憩。もう指が動かないよ」
彼女はそう言って、糊や木の粉で汚れた手を床に投げ出した。
僕も彼女の隣、少しだけ離れた場所に腰を下ろした。

いつもなら、この沈黙を恐れて無理に何か言葉を探すはずだ。
けれど、今は違う。
教室の喧騒や他人の視線といった、周りのノイズが一切ない夏休み。
ふたりだけの空間だからこそ、僕たちはここまで近づくことができたのだ。

窓から差し込む光の柱の中で、舞い上がった細かな埃が小さな星のようにキラキラと乱舞している。
その光景をただ眺めているだけで、不思議なほど心が凪いでいた。
「沈黙が、苦にならないな」 そんなことを、僕はぼんやりと考えていた。
言葉を交わさなくても、僕たちの間にある空気が薄まることはなく、むしろこの静寂そのものが、壊れやすい僕たちを守る薄い膜のように感じられたのだ。

「神木君といると、不思議だね」
ひかりが、光の中を漂う埃をぼんやりと見つめながら、囁いた。
「……え?」
「沈黙が、怖くないの。普段は、誰かが黙ると、急いで面白いことを言わなきゃって焦っちゃうのに。……ここは、静かなままでも、自分が消えてしまわない気がする」

僕が胸の内で反芻していた思いを、彼女がそのままの温度で言葉にした。
驚きよりも先に、深い安堵が胸を通り過ぎていく。
彼女はゆっくりと僕の方を向き、微かに微笑んだ。
それは、クラスで見せるあの眩しい「太陽の笑顔」ではなく、夕暮れ時の街灯のような、慎ましく、どこか寂しげな笑みだった。

「ねえ、そういえばさ。神木君、LINE交換しようよ?」
ひかりはふと思い出したように、スカートのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をタップした瞬間、通知を知らせる無機質な電子音が静かなアトリエに不似合いなほど高く響く。 彼女は慣れた手つきで次々と届くメッセージをスクロールした。
その指先の動きは、何かに追われているかのように速く、どこか強迫的でさえあった。

「……持ってないんだ」
僕がそう告げると、彼女の指がぴたりと止まった。
「え?」
「携帯、持ってない。必要だと思ったことがないから。ノートPCがあれば足りるんだ」
「持ってないって……一度も? 誰とも連絡取らないの?」
「誰とも。……取る必要が、なかったから」

ひかりは驚いたように目を丸くし、それから自分の手の中の、絶え間なく明滅する液晶画面を悲しげに見つめた。
「そっか。……神木君らしいね。私はね、これがないと、自分がどこにいるか分からなくなっちゃうんだ」
自嘲気味に笑い、彼女はスマホの画面を伏せて床に置いた。
「通知が鳴ると、あ、私ここにいるんだなって思うの。返事を書いているとき、自分の輪郭がはっきりするっていうか。……そうやって誰かとつながってないと、なんだか、消えちゃいそうなんだよね」

彼女が吐露したその弱さは、僕には未知の震えだった。
『誰かと繋がっていなければ、自分が分からなくなる』――。
そうか。
彼女にとってスマホは単なる道具ではなく、バラバラになりそうな自分を辛うじて繋ぎ止めるための「外骨格」だったのだ。
けれど、その告白を聞いた瞬間、僕の心の奥底で、冷たくて醜い感情がひっそりと鎌首をもたげるのを感じていた。

彼女の孤独は、他者の光を浴び続けなければ消えてしまう、受動的な影だ。
けれど僕の孤独は、最初から光そのものを拒絶し、暗闇の中で自分という輪郭だけを研ぎ澄ましてきた、自律した氷の城だ。
(……僕の孤独の方が、ずっと純粋で、完成されている)

そんな、孤独に対する歪んだ優越感のような感情が不意に湧き上がり、僕は自分自身にひどく困惑した。
なぜ今、僕は彼女の脆さに寄り添う代わりに、自分の絶望の年季を見せつけようとしているのか。
自分の醜さに、指先が冷たくなるのを感じた。

「……」
何かを言わなければ、と思った。
けれど、 同じだよ」なんていう薄っぺらな同調も、彼女を安心させるための優しい嘘も、今の僕の喉を通ることはなかった。
僕が抱えている孤独と、彼女が怯えている空虚は、似ているようでいて、その実、交わることのない別の深淵だったからだ。

ここで「分かるよ」と頷くことは、僕が必死に守ってきたこの「絶対零度の聖域」を、安っぽい共感で汚すことのように思えてしまったのだ。

沈黙が、再びアトリエを満たしていく。
僕は、彼女にこれ以上、自分の不確かさを語ってほしくない、とさえ思っていた。
彼女には、僕の暗闇を照らす「光」という役割のままでいてほしかった。
スマホに縋るような弱さを、僕の前でだけは見せないでほしかった。
僕が彼女を必要としているのと同じくらい、いや、それ以上に、彼女には僕を照らし続ける「唯一の光」であってほしかったのだ。

その静かなエゴイズムが、三センチの隙間を冷たく満たしていく。
ひかりはそんな僕の葛藤に気づいていないのか、それともこの沈黙すら受け入れているのか、穏やかな表情で光の中の埃を追い続けている。

――この静寂さえあれば、僕はもう、何もいらない。
あの冷たいガラスケースの中で、僕は、この柔らかな光に出会うためだけに、一人で耐えてきたのだと……そう信じ込もうとしていた。

一陣の夏の風が窓から吹き込み、光の中の埃を激しくかき乱した。
その風の冷たさに、秋の足音が混じっていることに、僕はまだ気づかないふりをした。
ノイズに満ちた新学期が、もうすぐそこまで来ている。

次話(第20話 『物語リクのスケッチブック「発明家の悲しみと映写機」』へリンク
<リクとヒカリを導いていた発明家のその悲しい過去が明かされる>

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