【小説】あの夏の光(26)実践する愛の試み

小説

柳先生から貸された『愛の試み』を通じ、蒼太は孤独という城壁を守るか、自己の崩壊を懸けて愛を試みるかの選択を迫られる。ひかりへの想いを資格や勝敗で測ることをやめた彼は、たとえ無防備な弱者になってもこの痛みを引き受け、彼女を愛し抜くことを誓う。その決意は自分自身への誠実な誓いとなり、蒼太は再び執筆を開始する。孤独を賭けて一人の少女を愛することを決めた、新たな物語が動き出そうとしていた。

実践する愛の試み

あの日、僕はひかりを愛そうと決めた。
その決意が僕のすべてを変えたわけではなかった。
翌朝目が覚めても、僕の心の中から無価値感という黒い塊が消え去ったわけではない。
ひかりと見知らぬ大和が笑い合う姿を想像すれば、今も胸は鋭く痛む。
だが、何かが決定的に違っていた。
僕はもう、その痛みから逃げないと決めたのだ。
それは僕が選び取った「愛の試み」に付随する当然の対価なのだと、受け入れることにした。

その日から、僕の朝のランニングの意味が変わった。
以前は自分自身から逃げるための苦しい逃走だった。
だが今は違う。
これは僕が僕自身に課した最初の「試み」だ。
ひかりの隣に立つにふさわしい男にはなれないかもしれない。
だが少なくとも、昨日の自分よりはほんの少しでも強い自分になる。
夜明けの冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、地面を強く蹴る。
肉体の限界に挑むその苦しさは、僕に生きているという確かな実感を与えてくれた。
それはもはや逃走ではなく、新しい自分を創造するための孤独で、しかし誇らしい闘いだった。

僕の変化は、放課後のアトリエにも現れた。
カラオケの一件以来、僕たちの間にはどこかぎこちない空気が流れていた。
僕はひかりの目をまともに見れず、必要最低限の言葉しか交わしていなかった。
だがその日、僕は意を決して自分からその沈黙を破った。
「高槻さん」
和紙を貼る作業をしていたひかりが、驚いたように顔を上げた。
「その、窓枠の色なんだけど……、僕が物語に書いた『ガラクタの星空』の夜の色を再現したいんだ。少しだけ青を混ぜた黒……一緒に絵の具を混ぜてくれないかな」
それは僕にできる精一杯の歩み寄りだった。
ひかりは一瞬きょとんとした顔をしたが、やがてその瞳に柔らかな光が宿った。
「……うん! もちろん!」

僕たちは小さなパレットの上で絵の具を混ぜ始めた。
僕の指と彼女の指が絵筆を交換するたびに触れ合いそうになる。
以前の僕ならそのたびに心臓が凍りつき、距離を取っていただろう。
だが今は違った。
その小さな痛みを、僕は引き受けることにした。
これは僕の「試み」なのだから。

僕のもう一つの試みは勉強だった。
これまで僕は、授業で良い成績を取ることなど何の意味もないと思っていた。
僕の価値は僕が紡ぐ物語の中にしかないと信じていたからだ。
だがひかりを愛そうと決めて、僕は気づいた。
彼女が生きているこの現実の世界で、僕もまた戦わなければならないのだと。
僕は授業に集中し、今までちゃんとしていなかった予習や復習というものを始めた。
驚くほど頭に入ってきた。
それは僕の孤独な読書体験が、無意識のうちに僕の思考力を鍛えていたからなのかもしれない。
英語の長文の中に物語の構造を見つけ出し、数学の数式の中に詩的な法則性を発見する。
それは僕にとって新しい世界の解読方法だった。

僕はひかりを愛そうと決めた。
その決意が僕に世界と向き合う力を与えてくれた。
僕の無価値感はまだ消えない。
だが僕はもはや、その闇に飲み込まれるだけの無力な少年ではなかった。
僕は僕にできる、すべての試みを始めたのだ。
走ること。
勉強すること。
そして彼女と言葉を交わすこと。

僕たちの間で「たった一人のための物語」展の準備が佳境入っていった。
図書室の片隅にある資料用の大きな机で、僕たちは展示スケジュールの最終確認をしていた。
高槻がスケジュール表の日付を指でなぞりながら、ふと動きを止めた。
「あ、この日、文化祭のすぐ後だね。土曜日……」
彼女の指が止まった日付は、文化祭が終わった直後の週末だった。
高槻は何かを思い出して小さく笑った。
「……そうか、土曜日か」
僕は何の確認かと高槻の顔を見た。
彼女は一瞬迷うように目を伏せたが、すぐに僕を見て少し頬を赤らめた。
「え? ああ、ううん、なんでもないよ。ちょっと自分の予定を……って、実はあのね、誕生日なんだ」 その日の会話はすぐに展示のテーマに戻ったが、「文化祭の直後の土曜日」という事実が、僕の思考を占拠し続けた。

僕はなんとなく駅前の大型書店に寄った。
僕の足は無意識に児童文学の棚へと向かう。
その時、僕の目に飛び込んできたのは、あの図書館で触れたあの特別な一冊だった。
ミヒャエル・エンデ作『はてしない物語』
あかがね色の表紙。
その色が僕の心を強く掴んだ。
高槻さんは僕に言っていた。
「文庫本は持っているけれど、二色刷りの文字が綺麗なこのあかがね色の単行本が読みたくて、図書室に借りに来ていた」と。
彼女が心から特別なものとして求めている形。
それがこの一冊だった。
高槻さんがあの本に見出した「さびしさを介した繋がり」の記憶が、僕の指先に熱として蘇ってきた。

頭で考える暇はなかった。
それは論理や合理性を遥かに凌駕する強烈な引力だった。
このあかがね色の本を、彼女の誕生日に渡さなければならない。
その一事だけが僕の心臓を叩いた。
それは彼女への感情が、僕の人生で初めて制御不能なほどの最高潮に達したという証明だった。
僕は生まれて初めて衝動だけでその本をレジに持っていった。
簡素な包装をしてもらい、僕の部屋の棚の隅にそっと置いた。
僕の孤独な世界は未だかつてないほど光に満ちていた。
僕の愛の試みが最高潮に達していた瞬間だった。

それから数日の放課後。
アトリエで作業をしていると、ひかりが不意に僕に尋ねた。
「ねえ神木君。最近、何か変わった?」
「……え」
「なんだか、すごく楽しそうだから」
彼女はそう言って太陽のように笑った。
僕は何も答えられなかった。
ただ胸の奥で、福永武彦のあの一節が静かに響いていた。
――愛は私たちを最も孤独にすると同時に、孤独から救い出してくれる唯一のものでもあるのだから。 僕はひかりを愛することでより深い孤独を知った。
だがその孤独の闇の中で、僕は初めて自分の足で立ち上がり、光の方へと歩き出す力を手に入れたのだ。

僕はチョークを握り直した。
壁画の森はもう色褪せてはいない。
その獣道の先には、確かに夜明けの光が差し込んでいるように見えた。

文化祭が一週間後に迫った週末。
僕たちの作業は大詰めに入っていた。
ひかりが組み上げた古い窓枠の『ガラスの部屋』
僕が描き込んだ黒いベニヤ板の『獣道の森』
僕たちの頭の中にしかなかった不格好で、しかし愛おしい星空が少しずつ形になっていく。
その日の放課後、僕は壁画の仕上げのために脚立の一番上に立っていた。
森の一番高い木の枝に、一羽だけ小さな青い鳥を描き加えるために。
僕たちの展示を見に来てくれる、まだ見ぬ「たった一人」へのささやかな希望の象徴として。

チョークを握る手にすべての意識を集中させる。
あともう少しで線が繋がる。
その時だった。
ぐらりと僕の体が大きく傾いた。
脚立の足が床に落ちていた木材の切れ端に乗り上げてしまったのだ。
「わ……!」
視界がスローモーションになる。
僕は咄嗟に壁に手をつこうとしたが間に合わない。
「危ないっ!」
ひかりが駆け寄り、僕を支えようと手を伸ばしたのが見えた。
だが、重力の勢いは止められない。
僕は彼女を巻き込まないように必死で体を捻ったが、二人の体はもつれ合い、床に敷いた養生シートの上に派手に転がり落ちた。

「……っ!」
鈍い衝撃。
しかし、コンクリートの硬さではなく、僕の腕の中には温かい感触があった。
とっさに彼女を庇うように抱き寄せていたのだ。
至近距離にあるひかりの瞳が、驚きで見開かれている。
僕の心臓と、彼女の心臓が、重なった胸の奥で早鐘を打っているのがわかった。
「……いっ……たぁ……」
僕の腕の中で、ひかりが小さな呻き声を上げた。
僕は慌てて体を離した。

「ご、ごめん! 大丈夫か、高槻さん!」
「う、うん……。なんとか……。神木君こそ、大丈夫?」
彼女は痛みをこらえながら僕の心配をしてくれている。
その優しさが僕の胸を締め付けた。
僕たちはしばらく床に座り込んだまま、互いの顔を見合わせた。

彼女の頬に壁画のチョークの白い粉がついている。
僕のTシャツには彼女のパーカーについていたペンキの青い色が、まるで鳥の羽のように移っている。
その滑稽な光景に、どちらからともなく笑いがこぼれた。
「あははっ」「ふふっ……」
それは僕たちがこのアトリエで初めて、一緒に心の底から声を出して笑った瞬間だった。
カラオケの一件以来、僕たちの間に漂っていたぎこちない空気は、その笑い声と共に完全に消え去っていた。

「……ありがとう、高槻さん。助けてくれて」
僕は立ち上がりながら、彼女に自然に手を差し伸べていた。
ひかりは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに僕の手をぎゅっと握り返した。
その手の小ささと温かさ。
僕は、もうその手から目を逸らさなかった。
これは僕の「試み」なのだから。

僕はチョークを握り直した。
壁画に描き加えた青い鳥が、まるで今にも飛び立ちそうに見えた。
文化祭まであともう少し。
僕たちの孤独な戦いは、もう終わりを告げようとしていた。
僕とひかり、二人の「共犯者」の夜明けが、もうすぐそこまで来ていた。

その夜、僕は、本当に久しぶりに物語の続きを書くことができた。
カラオケの一件以来、進むことができなかった物語。
僕のすぐ隣にはひかりという最高の読者がいる。
僕が書いたのは『リクのスケッチブック』の新しい章。
それは、合理主義という鎧を纏うために市長アルドが葬り去った、「かつての自分」を看取る物語の続き。

次話(27話)4月末にリリース予定

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