廃材で「星空」を創り始めた二人は、アトリエに漂う琥珀色の沈黙の中で、かつてない安堵を共有する。 だが、ひかりが零した「誰かと繋がっていないと消えてしまいそう」という脆さは、蒼太の心に歪んだ優越感を呼び覚ました。 自身の孤独を「完成された聖域」と信じる蒼太は、安易な同調を拒絶し、彼女を「僕を照らすだけの光」に閉じ込めようと願う。 三センチの隙間を冷たいエゴイズムが満たしていく中、二人の純粋な創造は、静かに変質し始めていた。
絶対零度の告白
(リクのスケッチブック「発明家の悲しみと映写機」)
..それは、リクの「光の言語」とヒカリの「音の感受性」が、機械という「共鳴の装置」を通して、初めて外の世界に翻訳された瞬間だった。
それはもう、二人だけの秘密ではなかった。
二人は、涙が溢れそうになるのをこらえながら、強く、強く、お互いの手を握りしめた。
僕は、目の前のノートパソコンから顔を上げた。
時計は午前三時を指している。
夢中で一気に書き上げた『発明家の悲しみと映写機』の章。
物語の中のリクとヒカリは、ついに「伝えるための言葉」を手に入れた。
壁に映し出された、雪の日の少女の物語の余韻が、僕自身のガラスの部屋を満たしているかのように熱い。
僕はその興奮のまま、書き上げたばかりの原稿をサイトにアップロードした。
僕たちの「共鳴」が、物語として外の世界に放たれた、その瞬間だった。
翌朝、登校する前にサイトを確認すると、Libからのコメントが入っていた。
鋭い、Libらしいコメントだった。
Lib :装置(映写機)の発明は秘密を言葉にする必然だが、それが映し出すのは依然として「孤独そのもの」だ。 機械が完成しただけでは真の共鳴とは言えず、それを「三人目」がどう受け止めるかが問われる。 作者よ、独りよがりの翻訳に満足せず、孤独を乗り越え誰かと手を握った「温度」を映せ。 その温度をどんな言葉で表現するのか、それこそが物語が真に外の世界へ届く鍵となる。
その日の放課後、僕はプリントアウトした物語を手に、図書室の奥、僕たちのアトリエへと向かった。
ひかりは、黒く塗ったベニヤ板の前に座り込み、チョークが走った跡をぼんやりと眺めていた。
僕の姿に気づくと、彼女はいつもの明るい笑顔を浮かべた。
「神木君、 ね、どう? この森、まだ獣道が足りない気がするんだよね」
「ああ、それは後で描き足してみるよ、高槻さん、これ読んでくれる?」
僕は、昨夜で書き上げたばかりの『発明家の悲しみと映写機』の章の原稿が入っった黒いファイルを差し出した。
ひかりは、木材や工具が散らかった作業台の上で、僕たちの最新の物語を静かに追いかけた。
リクとルカ(ヒカリ)が映写機を完成させ、涙を流しながら手を握る場面で、彼女の指先がかすかに震えた。
読み終えると、ひかりは黒いファイルをそっと胸元に抱きしめ、深く息を吐いた。
「すごい。すごいね、神木君……」
彼女の声は、微かに湿っていた。
「私たちが経験したことが、こんなに熱くて、美しい物語になるなんて。特に、おじいさんの『二人だけの真実は、秘密に終わる』っていう言葉。あれを読んで、映写機が完成した時の感動が、すごく腑に落ちたよ」
彼女は目を開き、僕をまっすぐに見つめた。
「おじいさんが言っている通りだね。私たちも、ただ物語を見つけるだけじゃなく、それを誰かに届けて、『秘密』を『共有』に変えるために、あの映写機みたいに、私たちの展示も、そうしなきゃいけないんだね。私、文化祭が楽しみになったよ」
ひかりの言葉は、僕の胸の内に、物語が持つ確かな力を灯した。
僕たちの共鳴によって、温められた物語を、たった一人に共有することなのだ。
僕たちのガラクタのアトリエでの創造が始まってからの、夏があっという間に過ぎていく。
ひかりは驚くべき行動力で、用務員さんや美術の先生から、大量の「素材」を手に入れてきた。
第二図書室の片隅は、僕たちの秘密基地であり、ガラクタの宝の山と化していた。
黒く塗られたベニヤ板。
やすりがけされた古い窓枠。
埃を払われたアンティークの書見台。
僕たちの設計図は、少しずつ現実の輪郭を持ち始めていた。
ひかりの言葉は、僕の胸の中に物語が持つ確かな力を灯した。
僕たちの共鳴によって温められた物語を、たった一人に共有すること。
ガラクタのアトリエでの創造が始まってから、僕たちの夏は、かつてない熱量を帯びて加速していった。
けれど、その熱狂がふと途切れる瞬間がある。
夏休みもあと数日で終わる日。
アトリエは、ひかりが家庭の用事で来なかった。
僕一人のアトリで作業をしていた。
ひかりがいないだけで、第二図書室の空気は驚くほど冷たく、静まり返っている。
黒く塗られたベニヤ板。
やすりがけされた古い窓枠。
彼女の不在を強調するように並ぶ「素材」たちを前に、僕は一人、物語の続きを考えていた。
「神木、いたか」
背後から響いたのは、鈴の音のように軽やかな彼女の声ではなく、低く、落ち着いた柳先生の声だった。
振り返ると、先生は入口のドア枠に寄りかかり、眼鏡の奥の鋭い瞳で、雑然としたアトリエを見渡していた。
「……先生。何か、ありましたか?」
文化祭の占拠について、何か苦言を呈されるのかと心臓が跳ねる。
「いや。高槻さんがいないようだから、少しゆっくり話せるかと思ってな。後でいいか?」
「放課後、少し付き合ってくれ。職員室の隣の応接室に来てくれ」
その静かだが、逆らうことのできない口調。
先生は、それだけ言うと、僕が返事を待たずに、第二図書室を出ていった。
夕方、僕は緊張しながら、西日の差し込む応接室の扉をノックした。
部屋の中には、柳先生が一人だけで机に向かっていた。
「ああ、来たか。まあ座りたまえ」
先生は僕にソファを勧めると、一冊の文集を取り出した。
それは、今年の春先にあった校内文芸コンテストの入賞作品集『若葉』だった。
『わたしたちの自画像』というテーマで募集され、綴られた冊子だ。
「忘れてないよな。神木、君が書いたこの詩のことだ」
先生が指差したページ。
そこには、「入賞」という文字と共に、匿名の詩が印刷されていた。
僕自身が、自分の正体を消すようにして綴った、氷のような独白。
「実はな、私が個人的に、昔の教え子たちと小さな文芸同人誌を作っていてね。今年の号のテーマが、『境界』なんだ。そこで、ぜひ君のこの詩を、転載させてもらえないだろうかと思ってな」
僕は戸惑った。
あんな暗い独白を、再び活字にして誰かに読ませたいなどとは思わない。
だが、窓の外から差し込む琥珀色の西日を背負った先生の真剣な眼差しに、断ることはできなかった。
「……はい。僕のでよければ」
「そうか、助かる」
先生は短く頷くと、改めてその詩のページに目を落とした。
僕もつられるように、その活字を目で追った。
それは、ひかりと交流する前の、僕の魂の最も深い場所で凍りついていた、原型の告白だった。
固有名詞のない、わたし
この透明なガラスケースが、わたしの世界の境界だ。
たった三ミリ。
それなのに、ここから外へは出られない。外の熱は、わたしの肌に届く前に凍りつく。
賑やかな笑い声は、歪んだノイズに変わる。
誰も、ほんとうの叫びを聞かない。
だって、わたし自身が、喉の奥でその声を圧殺しているから。
このガラスは、外から閉ざされたのではない。
わたしが、内側から溶接した監獄だ。なぜ、わたしはこんなに孤独なのか。
あなた方の世界は、優しすぎて、残酷だ。
その「大丈夫?」という言葉一つが、 このケースのガラスを、カタカタと震わせる。
もし、誰かの憐れみでヒビが入ってしまったら、 すべてが崩れ、わたしという弱点が剥き出しになる。
憐れみは要らない。
同情は、わたしの命取りだ。ただ、ひとり。
外の世界で春光の麗らかな太陽のように輝くあのひと。
あのひとは、このケースを空気のように通り過ぎていく。
その無関心なまでの光が、逆にわたしを焦がす。
あの一筋の光が、この硬質な防御の唯一の致命傷だ。
手を伸ばせば、そのあたたかさで、すべてを溶かし出せる気がする。だが、わたしは動けない。
もし、このガラスが砕け、光に触れたとして、 この完成された孤独の輪郭が、 ただの見苦しい泣き言に変わってしまうのが、耐えられない。この孤独は、病ではない。
これは、わたしが生きるために選んだ盾だ。
この鈍い痛みこそが、わたしの存在証明だ。
だから、誰にも、特にあの太陽にさえ、 このケースを破られるわけにはいかない。同じ感覚を持っている人よ。
もし、あなたがわたしに気づき、 優しさで手を差し伸べようとするなら、 頼むから、やめてくれ。
わたしは、その手を血を流してでも拒絶するだろう。恐怖なのだ。
孤独を失うことの、魂の崩壊が。今日も、わたしはケースの中で、 凍りついたまま、ただ、呼吸している。
誰にも触れさせない、絶対零度の魂として。
自分の詩を目を凝らして読んでいる僕に、先生は怪訝そうに訊ねた。
「神木、この文集持っているよな」
実は、文集を配布されたその日のうちに、僕はすぐに捨ててしまっていた。
自分の醜い自画像が冊子になっていることが耐えきれず、手元においておきたくなかったからだ。
「あ、いや、失くしてしまったみたいで….」
「そうなのか、まだ数冊、予備があるから、これをやろう」
先生が冊子を手渡そうとした。
「いや、大丈夫です、いりません」
僕は慌てて、冊子を押し返すように断った。
僕の不自然なやり取りで、一瞬、場が静寂した。
気を取り直すかのように、先生は話題を変えた。
「それで、高槻さんとの『反乱』のほうは、順調かね?」
「あ、はい。なんとか…」
僕は予算ゼロからガラクタで展示を作ることになった経緯を、手短に話した。
先生は楽しそうに聞いていたが、やがてその瞳が僕の心の奥を、見透かすような鋭い光を帯びた。
「そうか。…面白いな。ところで神木、一つ、聞いてもいいか」
「…はい」
「この詩を書いた時の君と。今、高槻さんと一緒にガラクタの中から何かを作ろうとしている、君。…何か心境の変化はあったかね?」
そのあまりに核心を突いた問いに、僕は言葉を失った。
僕の動揺を見透かしたように、先生は静かに続けた。
「まあ、無理に言語化する必要はない。だが、興味深いと思ってね」
先生は、僕の詩を指をそっと置いた。
「この詩は完璧だ。絶対零度の完璧な孤独。誰の侵入も許さない自己完結した美しさがある。…だが、それだけでは、物語は決して動かない」
その言葉。
僕は息をのんだ。
「神木は今、そのガラスケースの中から不完全なガラクタに手を伸ばしている。それは大きな『進歩』だ。だが、忘れるな。ガラクタに触れるということは、お前のその絶対零度の手が外の生温かい世界の雑菌に汚されるということでもある。その覚悟はあるのか?」
そして、先生はいつもの皮肉な笑みを浮かべた。
あまりにも鋭く切り込んだ質問に、答える言葉が見つからなく、押し黙っていると、柳先生は続けた。
「まあ、いい。お前たちがどんな物語を作り出すか楽しみにしているよ」
柳先生はそう言って、僕の詩が載った『若葉』をゆっくりと閉じた。
僕は先生にとっさに頭を下げた。
重い沈黙が部屋を満たす。
先生は、閉じた冊子の上に自分の大きな手のひらを置いた。
その無骨な指の付け根に、古い切り傷のような白い痕があるのが目に入った。
先生はそれを隠すこともなく、独り言のように、しかし僕の鼓動を止めるほどの重みを持って呟いた。
「神木。……泥まみれの手で握る手の方が、綺麗な手で遠くから眺める光より、ずっと温かい」
僕は顔を上げ、先生を見た。
先生は僕を見ていなかった。
ただ、自分の手の下にある「文集」を、体温で溶かそうとするかのようにじっと見つめている。
「たとえ、その後にひどい高熱にうなされることになったとしても、だ」
その声は、いつもの皮肉屋の教師のものではなかった。
もっと低く、掠れていて、まるで自分自身の消えない傷跡に言い聞かせているような響きだった。
僕は、何も言い返せなかった。
先生の言葉は、熱を持った礫(つぶて)のように僕の胸に当たり、そのまま奥深くへと沈んでいった。 意味は、わからない。
ただ、今の僕がどれだけ言葉を尽くしても届かない圧倒的な「経験」の重みが、そこにはあった。
「……失礼します」
僕はかろうじてそれだけを口にして、応接室を後にした。
廊下の窓から差し込む夕闇は、今の僕の心の色そのものだった。
「泥まみれの手」「高熱にうなされる」
心臓の奥に刺さったその言葉が、不気味なほどの説得力を持って、僕の思考をかき乱し続けていた。
詩の中の、『春光の麗らかな太陽のように輝くあのひと』
あれは、高槻ひかりのことだ。
高校に入学し、偶然彼女を見かけた時からずっと、彼女だけが僕の灰色だった世界の唯一の色彩だった。
僕のガラスケースをその無関心なまでの光で、焦がし続けた残酷な太陽。
僕のあまりに一方的で、そして屈折した憧れ。
遠くで微笑む彼女を、僕はガラスケースの奥から、まるで別世界の女神を見るような心地で眺めていた。
あの時の僕にとって、高槻ひかりは「人間」ではなく、僕の孤独を際立たせるための「光」そのものだった。
なのに、今はどうだ。
彼女は僕のすぐ隣で僕の書いた物語を読み、僕と一緒に泥にまみれた窓枠を磨いている。
「女神」は、僕の「隣人」になってしまった。
その変化を、柳先生は「雑菌に汚される覚悟」と呼んだのだ。
崇拝しているだけなら、自分は安全でいられた。
でも隣に立つなら、僕は自分のこの醜い孤独を、彼女の光の中に晒し続けなければならない。
僕は先生に突きつけられた詩と、そしてあの問いを胸に抱えたまま、夜道を歩いていた。
「この詩を書いた時の君と。今、高槻さんと一緒にガラクタの中から何かを作ろうとしている、君。……何か心境の変化はあったかね?」
帰り道、ずっと考えていた。
その言葉の一つ一つが、まるで外科医のメスのように、僕の心の一番柔らかな部分を正確に切り開いていく。
確かに変化はあった。
かつては、ただ焦がれるだけの遠い太陽だった、ひかり。
今は隣で一緒にガラクタを拾い、笑ってくれる仲間だ。
孤独の絶対零度は、もうない。
だが、先生が言ったように、その代わりに新しい痛みや混乱が僕の心をかき乱している。
孤独の淵から一方的に、そして屈折した想いで、あの光を見つめていた臆病な男。
それが自分なのだと、ひかりに知られてしまうのが怖かった。
あの詩は、僕のサイト「リクのスケッチブック」にも掲載している。
だけれど、彼女に手渡すあの黒いファイルには入れなかった。
その理由を僕は今さら突きつけられていた。
あの孤独の淵から、ひかりの側にいられる今。
その甘く、そして苦い心境の変化を噛みしめながら、僕は夜道を歩いていた。
「あの詩を書いた時の自分には…,もう戻りたくない」
それだけが、自分がよくわかっていることだった。
次話 第22話 2026年3月末リリース予定

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