ガラクタを素材にした展示準備が進む中、蒼太はひかりとの共同作業に永遠を感じ始めていた。しかし、その穏やかな時間は、彼女を「外の世界」へ連れ出しに来た友人たちの闖入によって無残に切り裂かれる。楽しげに去っていくひかりの背中を見送りながら、蒼太は自分たちの時間が彼女にとっての「休憩」に過ぎなかったことを痛感し、再び凍てついた孤独の監獄へと引き戻されていく。
夜明けの逃走
一人、ガラクタのアトリエに残された僕。
さっきまでの温かい空気は、もうどこにもない。
インクと埃と、そして僕自身の冷たい絶望の匂いだけが満ちていた。
僕は再び誰にも触れさせることのない凍てついた監獄の中で、ただ一人、静かに呼吸を再開した。
翌朝、教室に入った僕を待っていたのは、逃れようのない現実のノイズだった。
僕が透明な壁の向こうに隠したはずの耳に、無邪気な刃のような会話が突き刺さる。
「ねえ、昨日のグルチャに流れてきた写真見た? カラオケの」
「あー、見た見た! ひかりと大和くんが並んで座ってるやつでしょ? マジでバグってる、加工なしであのクオリティはエグいって」
「大和くん、バスケ部のキャプテンの時もヤバいけど私服とか反則だよね。ひかりと並んでると本当にお似合いっていうか……あれ付き合ってんの?」
「だよね。あそこだけオーラ違うし、完全にあっち側の人間だわ」
大和。
バスケ部キャプテン。
僕が一生かかっても手に入れられない、肉体的な躍動と迷いのない自信を象徴する肩書き。
スマホの画面の中で共有され、瞬く間にクラスの「共通言語」となっていく彼らの輝き。
僕はそのグループラインに入っていないどころか、スマホすら持っていない。
彼らが昨日、どんな曲を歌い、どんな風に笑い合ったのか、僕には知る術もないし、知る資格もない。
彼が太陽なら、僕はその足元に広がる、誰も気に留めない泥のような暗闇だ。
その夜、自室の僕は物語を書くことができなかった。
パソコンの前に座っても、キーボードの上で僕の指は震え、ただ逡巡するだけだった。
ひかりという読者のために物語を書きたい。
その想いはまだ確かに僕の中にある。
だが、その想いが強くなればなるほど、僕の無価値感が濃い影となって創作意欲を蝕んでいく。
息が詰まる。
このままではまた、あのカーテンを閉め切った暗い部屋に逆戻りだ。
僕は衝動的に立ち上がった。
そしてクローゼットの奥から、埃をかぶったランニングシューズを引っ張り出した。
何かに抗うように。
何かから逃げるように。
翌朝、まだ街が深い青色に沈んでいる時間。
僕は生まれて初めて自分の意志で家の外へと駆け出していた。
冷たい空気が肺を焼く。
ろくに運動もしていなかった体はすぐに悲鳴を上げた。
心臓が張り裂けそうで足は鉛のように重い。
だが、僕は走るのをやめなかった。
この肉体的な苦痛だけが、僕の心の中のあの得体の知れない黒い塊から意識を逸らさせてくれた。
僕は走った。
ひかりの輝きから逃げるように。
バスケ部のキャプテンという、圧倒的な『正解』の持ち主である大和から逃げるように。
そして何よりも、彼女の隣にいる資格など何一つない無価値な自分自身から逃げるように。
夜明けの光が東の空を白く染め始める。
僕はその光に追われるように、ただひたすらに走り続けた。
それは僕が僕自身に課した、初めての、そして孤独な戦いの始まりだった。
その日から、僕の日常に新しい儀式が加わった。
毎朝、誰よりも早く起き、夜明け前の街を走る。
放課後はひかりとアトリエで作業をする。
以前のような温かい空気はもうない。
僕たちは必要最低限の言葉だけを交わし、黙々と手を動かした。
ひかりは僕の変化に気づいているようだったが、何も聞いてはこなかった。
彼女のその優しさが逆に僕を苦しめた。
走ることで僕の何かが変わるわけではなかった。
体力は少しずつついてきたが、心の中の空洞は埋まらない。
だが走っている間だけは、僕は僕の肉体の主人でいられた。
苦しさに歪む呼吸、足の痛み、流れる汗。
その確かな感覚だけが、僕がまだこの世界に存在しているという証になった。
走り始めて一週間が経った頃。
僕はいつもの河川敷のコースで、夜明けの光を浴びながら足を止めた。
昇ってきた朝日はあまりに美しく、そして僕を責め立てるように残酷だった。
それは僕が焦がれ、そして決して手の届かないひかりの輝きそのものだ。
その光が僕の無価値さを白日のもとに晒している。
僕はその場に崩れるように膝をついた。
もう走れない。
どこまで逃げても、僕は僕から逃れることはできない。
その絶対的な事実が、僕の心を完全に折った。
鉛のような足を引きずり、僕は逃げるように自室へと戻った。
カーテンを閉め切った暗い部屋。
僕を守る、冷たい「氷の監獄」
荒い息を吐きながら、僕は習慣のように机の上のノートPCを開いた。
青白い液晶の光が、汗ばんだ僕の顔を無機質に照らす。
その時だった。
1週間、静止したままだった僕の投稿サイトに、一件の通知が届いていた。
マウスを握る指が急ぐ。
それは、僕が心のどこかでずっと待ち望んでいた名前からの言葉だった。
Lib:話の続きはまだか? それとも作者よ、書くことから逃げてしまったか?
僕は息をのんだ。
僕が物語から逃げ、ただ夜明けの街を走り続けている。
Libの問いは、僕の魂の最も深い場所を再び抉ってきた。
僕は逃げているだけだ。
走ることで苦しんでいるフリをして、本当に向き合うべき痛みから目を逸らしているだけだ。
書かなければならない。
ひかりのためでも誰のためでもない。
僕自身の魂を救うために。
Libは僕を救おうとしているのではない。
ただ、僕から「逃げ場」を奪ったのだ。
走ることも、黙り込むことも、大和への劣等感に浸ることも、すべては「書かないための言い訳」に過ぎない。
喉の奥が熱くなる。
ひかりに見放されたくないわけでも、大和に勝ちたいわけでもない。
ただ、この言葉の檻の中でしか呼吸できない自分が、書くことすら辞めてしまったら、僕は本当に透明な死体になってしまう。
僕は震える指をキーボードに添えた。
決意や希望なんて立派なものじゃない。
ただ、ここで一行でも書き出さなければ、僕は僕自身の重みに押し潰されて、二度と立ち上がれなくなる。
僕には、もう、これしかなかった。
肺に残る冷たい空気の残響を、一文字ずつ、黒い文字に変えていく作業しか。
次話(25話 愛の試み)へリンク
<柳先生から渡された本を読み、蒼太は愛することの意味を考える>

コメント