『物語リクのスケッチブック「光の糸」』
リクの、ガラスの壁には、小さな、虹色のかけらが、残っていた。
あの日、名も知らぬ少女が起こしてくれた、ささやかな奇跡の痕跡。
初めは、ただ、それだけだった。
彼の、完璧に閉ざされた世界に、唯一存在する、異物。
彼は、そのかけらを、毎日飽きることなく、スケッチブックに描き写していた。
だが、数日が経つうちに、その小さな「かけら」は、静かに、その存在感を増していった。
朝、太陽の光が、そのかけらを通り抜ける時。
彼の部屋の床の上に、これまで見たこともないような、鮮やかな七色の光の模様が描かれた。
それは、時間と共に、ゆっくりと部屋の中を移動していく、光の日時計のようだった。
夜、月の光が、そのかけらに触れる時。
かけらは、まるで燐光を放つかのように、暗闇の中でぼんやりと青白く輝いた。
雨の日には、窓を叩く無数の雨粒たちが、そのかけらの周りだけを避けて流れていくように見えた。
その虹色のかけらは、もはや単なる痕跡ではなかった。
それは、リクの静的だった世界に生まれた、唯一の変数。
リクの心を捉えて離さない、謎。
リクは、いつしか窓の外の世界の風景を描くのをやめていた。
彼のスケッチブックは、ただひたすらに、様々な角度から、様々な光の中で見た、あの虹色のかけらのスケッチだけで埋め尽くされていく。
あれは、一体、何なのだ。
あの名も知らぬ少女は、彼の壁に一体どんな魔法を残していったのだろう。
そして、ある晴れた午後。
リクは、一つの発見をした。
彼の、その「目」は、ただ物事をありのままに写し取るだけのものではなかった。
それは、世界の表層のさらに奥にある、物事の本質や見えない「線」を捉えることができる、特別な瞳だった。
彼は意を決して、その特別な「目」で、ガラスの上の虹色のかけらを見つめた。
いや、違う。 そのかけらを「通して」、外の世界を見てみたのだ。
その瞬間、世界は変容した。
リクがいつも見ていた、ありふれた公園の風景が、まるで違う次元の輝きを放っている。
木々の葉脈の一本一本が金色の光を放ち、人々が歩いた後の地面には、淡い感情の残光が漂っている。
そして、何よりも――。
ガラスの、あの虹色のかけら。
その中心から、一本の細く、しかし決して消えることのない光の糸が伸びているのを、リクは見た。
その光の糸は、彼の部屋を通り抜け、窓の外の公園の小道を辿り、そして街の喧騒の向こう側へと、どこまでも、どこまでも続いていた。
それは、外から内へ向けられた、あまりに美しいメッセージだった。
道標だ。
リクにはわかっていた。
これは、あのかけらを残していった、名も知らぬ少女へと続く、光の道筋だということを。
リクの心臓は凍りついた。
これは、ただの現象ではない。
これは、招待だ。
外の、あの嵐の喧騒の世界からの、彼への呼び声。
恐怖がリクのすべてを支配した。
彼はベッドから飛び起きると、部屋で一番分厚い遮光カーテンを力任せに引き、窓を完全に覆い隠した。
見なければいい。
あのかけらも、光の糸も、見なければ、彼はまた元の安全な静寂の世界に戻れるはずだ。
リクは自分の席に戻り、記憶だけを頼りに、かつて見ていた遠い公園の風景を描こうとした。
だが、もう描けなかった。
彼の頭の中は、あの虹色の光の糸の残像だけで満たされていた。
静寂はもはや安らぎではなく、息の詰まるような孤独の重さとなって彼にのしかかってきた。
リクは逃げたのだ。
あのかけらから。あの光の糸から。
そして、その逃避は、リクをどこにも連れてってはくれなかった。
二日間、彼はカーテンを閉め切った暗闇の中で過ごした。
だが、もう限界だった。
リクはゆっくりとベッドから抜け出すと、震える手でカーテンの端を握りしめた。
そして、意を決して、それを開く。
窓ガラスのかけらは、変わらずそこにあった。
今日の午後の光を浴びて、静かに、しかし確かに、彼の部屋に虹色の光を投げかけている。
リクはもう一度、そのかけらを通して外を見た。
光の糸は、変わらずそこにあった。
彼を待っているかのように、静かに輝きながら。
リクは悟った。
この謎を解く鍵は、もうこの部屋の内側にはないのだ、と。
彼はまだ外の世界が怖い。
あの名も知らぬ少女に会う勇気もない。
だけど、このまま、この息の詰まる暗闇の中に留まり続けることも、もうできない。
リクは生まれて初めて、自らの意志で部屋のクローゼットを開け、外へ着ていくための服を選び始めた。 それは、積極的な決断ではなかった。
ただ、一つの美しい謎の答えを知りたいという、臆病な探求心。
最終的には、彼は、あの光の糸の、その抗いがたい引力に屈したのだ。
受け身のまま、新しい動きを始めることを決めた。
リクが向かうべき場所は、一つしかなかった。
あの光の糸の先。
あの名も知らぬ少女の元へ。
リクは玄関のドアに手をかける。
この一歩がどこへ繋がっているのか、まだわからない。
だが、この扉を開け、光の糸を辿っていくことが、知りたいことを知る唯一の方法だった。

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