「ゲリラ展示」を決めたものの、ひかりと蒼太は互いの視点のズレに直面する。 Libの指摘する「倍の孤独」に胸を衝かれ蒼太。 そんな時、柳先生が示したのは「足跡を探す」という新たな道だった。 ただ心が震える本を探し合い、 互いの魂の欠片を交換する中で、蒼太は初めて、過去の傷をひかりに明かす。 その告白を、ひかりは静かに、優しく受け止めた。
たった一人のために
窓の外では、重く垂れ込めた雲が今にも泣き出しそうな空を支えている。
湿気を孕んだ風が廊下を這い、教室の喧騒をどこか遠くの出来事のように曇らせている。
期末テストまであと一週間。
放課後の校舎には、焦燥感と熱気が混ざり合った、この時期特有の澱んだ空気が満ちている。
けれど、図書室の扉を閉めた瞬間、世界は一変する。
古い紙の匂いと、僅かに冷房の効いた乾燥した空気が、僕の肌を優しく撫でる
僕とひかりの間には、ここ数日で新しいコミュニケーションの形が生まれていた。
言葉は少ない。
僕が書架の奥から見つけ出した谷川俊太郎の詩集を黙ってひかりの机の上に置くと、彼女はその数ページをめくった後、今度は自分が見つけ出した美しい装丁の画集を僕の前に差し出す。
それはまるで、互いの魂の欠片を交換し合うような、静かで満たされた時間だった。
僕は彼女が、ただ明るいだけの少女ではないことを知った。
彼女が選ぶ画集には、いつもどこか、静かな哀しみの影が潜んでいた。
それは、僕が難解な理屈で武装してまで隠そうとしている臆病な沈黙と、驚くほどよく似ていた。
彼女もまた、僕の差し出す本の隙間に、言葉にできない「何か」を探しているのかもしれない。
僕たちが互いに交換しているのは、本ではなく、隠し持った孤独の輪郭なのだと、僕は感じ始めていた。
僕たちの「足跡探し」と名付けた、展示のための本集めは、そんなふうに静かに続いていた。
「……ねえ、神木くん」
ひかりが画集から顔を上げずに、小さく呟いた。
「みんな今頃、必死に赤点回避の勉強してるんだろうね。数学のワークとか」
「……そうだね。僕たちだけ、別の時間の流れにいるみたいだね」
「ふふっ。このまま夏休みまで、ずっとここに隠れてられたらいいのに」
彼女の言葉と共に、図書室の冷たい空気が、一瞬だけ夏休みへの予感で熱を帯びたような気がした。
その日は、僕たちは児童書のコーナーの片隅にいた。
ふと、一冊の分厚い本に目が吸い寄せられる。
真紅の絹張りの表紙。
僕は無意識に手を伸ばしていた。
その背表紙に指が触れようとした瞬間、反対側から白く細い指が伸びてきて、僕の指先と触れ合った。「あ…」ひかりだった。
僕たちは、同じ一冊の本を前に、立ったまま手を伸ばし、互いの顔を見合わせた。
その本は、エンデの『はてしない物語』だった。
「…高槻さんも、この本、好きなの?」
彼女は驚いたように目を丸くして、それから、嬉しそうにはにかんだ。
「うん。大好き。…神木君も?」
僕は頷いた。
「僕、文庫本は持ってるんだけど…」
「わたしも!」と、ひかりが声を弾ませた。
「わたしも文庫本持ってる。でも、時々、どうしても、このあかがね色の絹張りの単行本が読みたくて、借りに来てた。二色刷りの文字が綺麗で…」
「…バスチアンが、だんだん現実世界から離れていくところ…」
「そう!赤と緑のインクで…」
同じだった。
僕たちは、同じ物語を愛し、同じ特別な一冊の装丁に心を奪われていた。
ひかりは、そのあかがね色の表紙を愛おしそうに指でそっと撫でながら、ふと、遠くを見るような目をした。
「…神木君、この本…、わたしにとっては、とっても特別なんだ」
「そうなんだ…」
「小学生の頃、公営の図書館で借りて、初めて読んだんだ。その時、本の間に、手紙が挟まっていたんだよね、かわいい便箋の」
僕の心臓がドクンと鳴った。
「内容は、この本の感想だったんだ。差出人は全然知らない、たぶん、わたしと同じくらいの歳の女の子で」彼女は少し顔を赤らめた。
「その子は、『周りに、この感動を伝えられる人がいなくて、あまりにも胸がいっぱいで、思わず書いてしまった』って。…まるで、幼心の君の声を聞いたバスチアンみたいに」
僕は何も言えずに、ひかりの言葉を待った。
「わたし、すごく震えちゃって。こんな風に、本を介して、繋がろうとする、さびしい誰かがいるんだって」
ひかりは僕の目をまっすぐ見た。
「わたし、その便箋の裏に、同じように感想をいっぱい書いて、お返事したんだ。その、『はてしない物語』のページに挟んで」
「…そのまま?」
「うん。それがどうなったか、わたしは知らない。あのあと、その子、わたしのお返事を読んでくれたかな。それだけが、ずっと心に残っているんだけどね」
その言葉を聞いたとき、自分の内側で硬く閉ざされていた扉に、初めて誰かの手が触れたような、静かな衝撃が走った。
僕の孤独は、誰かの孤独と、本を介して繋がれるのだと。
彼女が選ぶ画集の静かな哀しみ。
僕が選ぶ詩集の奥にある、言葉にならない祈り。
そして、この『はてしない物語』を巡る、見えない誰かとの繋がりを求める願い。
それらがバラバラのものではなかった証拠のように、その真紅の本は、僕たちの目の前にあった。
僕の心が不意に温かくなる。
この偶然の一致と、彼女が見せてくれた心のひとかけらは、僕たちの距離を確かに近づけていた。
その本は、僕たちが選ぶ二十冊の、大切な一冊となった。
そんな穏やかな時間が続いていたが、僕たちの展示企画そのものは、まだ何の進展も見せていなかった。
見つけ出した十九冊の素晴らしい本たち。
だが、それらはあまりに個性的でバラバラで、一つのテーマの下に束ねることなどできそうにない。
「うーん…」
ひかりが、机の上に並べられた十九冊の本を見つめながら唸った。
「すごい本が集まったのはわかるんだけど…。これをどう一つの展示にすればいいのか、全然見えてこないや」
僕も同じ気持ちだった。
僕たちの「足跡探し」は、素晴らしい宝物をたくさん見つけ出した。
だが、それらを繋ぎ合わせる地図がない。
彼女はため息をつくと、並べられた本の中の一冊を手に取った。
それは、僕が選んだ『世界の甲虫図鑑』だった。
「ねえ、神木君。この図鑑。神木君にとって、すごく大切な1冊だったよね」
彼女は、次に、彼女自身が選んだ『星の王子さま』を開いた。
「そして、これは、私。誰かとの繋がりを求めて、でも、それが叶わずに、孤独の美しさを知っている。…私たちは、本を選んだときの『自分』を見せ合っていたんだね」
彼女は、十九冊の本全体ではなく、その一つ一つを愛おしそうに眺めた。
「でも、これらは、神木君と私、たった二人の『自分』の足跡にすぎない。ねえ、私たちって、この本の作者でもないし、主人公でもないよね。私たちは、この本を読んだ人……」
彼女は、ふと『はてしない物語』に挟んだ、あの返事の便箋を語ったときのような目をした。
「ねぇ、ちょっと、見方を変えない?」
なにかを確信したような表情になったひかりが言った。
「そう、そう!本そのものじゃなくて、その本を、『読んだ人』のこと、考えてみない!?」
「読んだ、人?」
「うん!この図書館の古い貸出記録とか、残ってないかな。誰がどんな本を読んでいたのか。その人の物語を想像してみるの!」
彼女のその視点の転換に、僕ははっとした。
僕たちは、柳先生に許可を取り、普段は立ち入らない書庫の一番奥、古い事務記録が眠る部屋へと足を踏み入れた。
そこは、古い紙の匂いとインクの匂いが混じり合った、時間の化石のような場所だった。
僕たちはキャビネットの中から、何十年も前の手書きの貸出カードの束を見つけ出した。
一枚一枚カードをめくっていく。
そこに記されているのは、知らない名前と、本のタイトルだけ。
だが、そこには、確かに物語があった。
毎年春になると、必ず桜の写真集を借りに来る誰か。
夏休みの間だけ、分厚い海外の推理小説を全巻読破していく誰か。
僕たちは、その声なき読書家の物語を想像しながら、カードをめくり続けた。
その時だった。
僕の指がある一枚のカードで止まった。
ヘルマン・ヘッセ、『デミアン』
僕が中学の頃、読んだ一冊。
その貸出記録は十年以上も前で止まっていた。
だが、その最後の貸し出し。
ある一人の生徒が、たった一ヶ月の間に、三回もその本を繰り返し借りている。
まるで、その本の中に、答えを見つけようと必死にもがいているかのように。
「…どうしたの?」
僕が固まっているのに気づいたひかりが、僕の手元を覗き込んだ。
「…『デミアン』」
僕は囁くように言った。
「知らない。どんな、話?」
「…自分の内側にある、光と闇。その両方を受け入れて、本当の自分になっていく、物語」
僕のその拙い説明に、ひかりはじっと耳を傾けていた。
そして、彼女はその古い貸出カードをやさしい眼差しで見つめた。
「…そっか」
彼女は囁いた。
「この十年前の、誰かさんにとって、この一冊が、世界のすべてだったのかもね」
彼女は顔を上げた。
その瞳がきらりと光る。
「ねぇ、神木君。わたしが繋がりたかったのは、いつも不特定多数じゃなかった。たった一人に、この感動を伝えたい誰か。そして、たった一人、その感動を受け取る誰か。」
「ねえ、神木君。わたし、わかったかもしれない。わたしたちが、やるべきこと」
「え…」
「『英雄の旅』じゃない。わたしたちがやるのは、これだよ」
彼女は、その一枚の貸出カードをそっとつまみ上げた。
「『たった一人のための物語』展」
その言葉が、僕の頭の中で雷鳴のように響き渡った。
たった一人の読者。
Lib。
そして、ひかりが言った、あの言葉。
「たった一人にでも、ちゃんと届くなら」
すべてが繋がった。
第三の道。
それは、僕の道でも、彼女の道でもない。
僕たちが見つけ出した、この名もなき、誰かの「足跡」そのものだったのだ。
「ねえ、神木君。わたしの前のアイデア、あの『英雄の旅』の地図。あれも、伝える道具として、もう一回使おうよ!」
「道具?」
「うん。あの地図は、『誰もが持ってる、物語の型』でしょ?だったら、一人ひとりの、特別な道のりが、実は『あなただけの、英雄の旅なんだよ』って、伝えるために使えばいい!」
「一人ひとりの道が…、英雄の旅?」
「そう!たとえば、地図の最初のステップは『日常の世界』でしょ?私たちは、それを『誰にも見せない、秘密の場所』って変えるの。この貸出カードの子にとっては、図書館の片隅が、もう、立派な冒険の始まりだった、共感を込めて」
「…!」
「そして、最後の『故郷への帰還』。これは『誰も通らない道で見つけた、あなただけの宝物』って書き換える。家に帰らなくていい。孤独なままで、あなたはもう、英雄だよって、優しく肯定してあげるために」
「ああ!孤独な道に、ただ、光を当てるんだ!」
僕は呟いた。
「誰も見ていない場所で必死にもがいた、たった一人の足跡を、僕たちが、二人で、見つけ出し、照らしてやるんだ!」
それが、僕たちの共有なんだね!
僕は、衝動のままに、自分のスケッチブックを開いた。
そして、鉛筆を走らせる。
僕が描いたのは、巨大な森の絵だった。
そこには、たくさんの人々が行き交う、明るく広い一本の道がある。
だが、その道の脇には、ほとんど誰にも気づかれない、細く暗い獣道が隠れている。
そして、その獣道の先、森の一番奥深くには、一冊の古びた本が、静かに光を放っている。
「多くの人が通る道じゃない」
僕は呟いた。
「でも、あるたった一人にとっては、この細い道こそが、唯一の宝物へと続く道しるべになる。それが、英雄の旅…そういうこと?」
僕のその絵を見たひかりは、心の底から嬉しそうに笑った。
「そう!そうだよ、神木君!神木君の孤独な獣道も、わたしの手紙の送り先も、全部、間違いじゃなかったって、証明できる」
僕の内なる孤独な心象風景。
彼女の繋がりを求める誰かへと開かれた願い。
すれ違い続けていた僕たちの二つの地図が、今、この「たった一冊の本」という宝のありかを指し示し、完璧に一つに重なった。
僕たちは顔を見合わせた。
その目には同じ決意とこれから始まる困難な、しかし胸の躍るような冒険への確かな高揚感が宿っていた。
僕たちの本当の共同作業が、この埃っぽい書庫の片隅で、今、確かに始まったのだ。

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