ガラクタを素材にした展示準備が進む中、蒼太はひかりとの絆を深める新章を書き上げる。しかし直後、柳先生から過去の「孤独な詩」を見せられ、自身の変化を問われることになる。かつてはひかりを「遠い太陽」として眺めるだけだったが、今は彼女と隣り合い、共に創造する。孤独という盾を捨て、自分を晒す「汚される覚悟」を問われた蒼太は、光の中に身を置く恐怖と向き合いながら、新たな一歩を踏み出そうとするのだったが…
凍てついた監獄の中へ
夏休みが終わり、新学期が始まった。
校舎に喧騒が戻った途端、僕たちの「アトリエ」は、再び「第二図書室の片隅」という無機質な現実に引き戻された。
廊下を走る足音、吹奏楽部の練習音、そして教室を満たす記号的な笑い声。
それらすべてのノイズが、かつて琥珀色の静寂に守られていた図書室の空気を、容赦なく侵食していく。
休み時間になるたび、ひかりはクラスの輪の中心で、夏休み前と変わらず「太陽」として輝いていた。僕は変わらずにひとり、文庫本を開いて座っている。
だが、放課後のチャイムが鳴り、騒がしい生徒たちが校門へと吐き出されていくと、ようやく僕たちの時間は再び密かに動き出す。
窓から差し込む西日は少しずつ角度を変え、秋の気配を帯びた風が、やすりがけした木枠の匂いを運んでくる。
「……やっと、静かになったね」
アトリエに駆け込んできたひかりの肌には、文化祭準備で浴びた屋外の陽光の匂いが混じっていた。
僕たちは、学校という巨大な機構の隙間で、誰にも見つからないように物語の続きを紡ぎ続けた。
リクの物語『発明家の悲しみと映写機』は、僕たちに一つの大きな課題を突きつけていた。
自分たちの「感性」を、どうやって外の世界の「論理」に理解させるのか。
それは、現実の僕たちが文化祭の展示で立ち向かうべき、本質的な問いでもあった。
僕はその答えとなる物語の始まりを、深夜の自室でサイトにアップロードした。
数時間後、Libから届いたコメントは、鋭い楔のように僕の心に打ち込まれた。
Lib:「正しい論理」は、時に「真実の音」を閉じ込める檻となる。アルドが縋った合理主義は、傷つかないための盾ではなく、己を沈黙させるための装置に過ぎない。 だが、忘れるな。他者の檻を壊そうとする光は、同時に、自分自身の安寧をも焼き尽くす。作者よ、その覚悟があるか。
誰かの沈黙を破る光になるということは、僕自身が守ってきた平穏な孤独を焼き尽くすということだ。 引き返せない一歩を踏み出そうとしている予感に、僕は静かに震えていた。
そして翌日の放課後。
僕たちのガラクタのアトリエでの創造は驚くほど順調に進んでいた。
ひかりが交渉してきてくれた古い窓枠は僕の設計図通りに組み立てられ、彼女の器用な手によって一枚一枚丁寧に和紙が貼られていく。
僕は黒く塗られた巨大なベニヤ板に、チョークで『獣道の森』の下絵を描き込んでいた。
僕たちのアトリエには言葉は少なかった。
ただ紙やすりが木を擦る乾いた音と、チョークが板を叩く硬い音だけが静かに響いている。
だがその沈黙は少しも苦痛ではなかった。
時折ひかりが僕の描き進めた絵を後ろからそっと覗き込み、「……すごい。森の匂いがしてきそう」と囁く。
僕も和紙を透過して差し込む西日が彼女の真剣な横顔を照らし出す光景のあまりの美しさに、息をのむ。
この薄暗いアトリエが僕たちの世界のすべてになればいい。
そうすれば、僕はもう何も恐れる必要はない。
ひかりの隣に、ただの『僕』として、ずっといられる。
僕はその瞬間の静寂こそが、僕たちに許された唯一の正解なのだと、何の疑いもなく信じていた。
作業がひと段落したとき、僕はリクがアルドの「賭け」に応じるシーンを書いたファイルを、ひかりに手渡した。
「……これ、続き」
「あ、ありがとう! 楽しみにしてたんだ」
ひかりはパッと顔を輝かせ、大事そうにプリントを受け取ると、いつものように窓際の席でそれを読み始めようとした。
だが、そのファイルに彼女が目を落とそうとした、まさにその時だった。
僕たちの静かな聖域を切り裂くような、場違いに明るい声が入り口から響いた。
「ひかりー! やっぱりこんなとこにいた!」
アトリエの入り口に、カラフルなカーディガンを羽織った二人の女子生徒が立っていた。
ひかりの友達。
僕が教室でいつも遠くから眺めている、太陽の世界の住人たち。
彼女たちは僕たちの聖域に何の遠慮もなく、ずかずかと足を踏み入れてきた。
アトリエの沈黙に深く馴染んでいたひかりの横顔は、その声が届いた瞬間、何の淀みもない明るい表情へと塗り替えられた。
「あっ!」
ひかりは目を見開き、その場でぴたりと動きを止めた。
「うわ、埃っぽ! ひかり、こんなとこで何してんの? 服が汚れるよ!」
一人が僕たちの創造の過程にあるガラクタの山を眉をひそめて見回す。
もう一人は僕の存在に気づくと、「え、誰この人? ……」と、僕と目を合わせることもなく、ひかりの耳元で囁いた。
彼女たちにとって、僕は名前を持つ「人間」ですらなく、この埃っぽい風景の一部に過ぎないのだ。
僕は咄嗟に壁画の前に立ち、まるで自分の醜い部分を隠すかのように背中で絵を隠した。
「ご、ごめん! 文化祭の準備で……」
ひかりが慌てて立ち上がる。
その瞬間、闖入者の一人がまるで世界の真理を告げるかのように大声で言った。
「ひかり! あんたこの後の約束忘れてるでしょ! 今日駅前でカラオケだって言ったじゃん!」
カラオケ。
僕の人生で一度も足を踏み入れたことのない言葉。
光と音と喧騒だけでできている、僕の世界とは対極の場所。
「あっ!」
ひかりは目を見開き、その場でぴたりと動きを止めた。
僕たちの創造を中断させたことへの申し訳なさよりも、失念していた予定の重大さに打ちのめされているといった顔だった。
「え、うそ! あーーーー、ごめん、完全に頭から飛んでた!」
彼女は悪気なく頭を抱える。
その仕草は、僕との共同作業を忘れていたのではなく、その後のもっと「大切な」予定をこの静かなアトリエでの作業のためにうっかり「失念していた」ことへの焦燥に見えた。
僕たちのこの静かで濃密な創造の時間。
僕が永遠に続けばいいと願ったこの宝物のような優先順位の最も高い時間は、彼女にとっては次の光り輝く世界へ向かうまでの休憩時間に過ぎなかったのか。
僕は、このアトリエが二人だけの世界だと思い上がっていた。
だが違った。
僕は彼女が持つあの広大で輝かしい「外の世界」の片隅に立っているだけだと痛感した。
砕け散ったはずのガラスの破片が、再び僕の心の周りに集まり始めていた。
打ちのめされる僕の耳に、追い打ちをかけるような遠慮のない声が聞こえた。
「ていうかさ、今日大和くんも来るんだって。ひかりのこと待ってると思うよー」
ひかりが「え、ちょっとやめてよー」とまんざらでもない様子で友達の肩を叩いている。
大和くん。
僕の知らない男の名前。
きっと彼も太陽の世界の住人なのだろう。
ひかりと同じ言語を話し、同じ光の中で笑い合うことができる人間。
そのたった三文字の名前が僕とひかりの間に、見えない、しかし決して越えることのできない分厚いガラスの壁を再び作り上げた。
ひかりは僕の方を振り返ると、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん神木君! 作業は楽しかったよ! 今日もう行かなきゃ。この続きはまた明日でもいいかな?」 僕は何も言えなかった。
ただ小さく頷くことしかできない。
「みんな、すぐ帰る準備するから待って」
ひかりは、手に持っていた黒いファイルを鞄に押し込むようにし、急いで帰り支度を始めた。
「じゃあね!」
すぐにひかりは友達に腕を引かれ、嵐のように去っていった。
廊下の向こうから彼女たちの明るい笑い声が遠ざかっていく。
一人ガラクタのアトリエに残された僕。
さっきまでの温かい空気はもうどこにもない。
インクと埃と、そして僕自身の冷たい絶望の匂いだけが満ちていた。
僕は手に持っていたチョークを音もなく床に落とした。
窓枠にひかりが丁寧に貼っていった和紙が西日で白く光っている。
その光景が、まるで僕を嘲笑っているように見えた。
僕は描きかけの壁画に目を落とす。
そこにある獣道の森はひどく色褪せて、どこにもたどり着けない孤独な迷路のように見えた。
絶対零度の魂。
柳先生は僕の詩をそう評した。
その氷が溶け始めたと思ったのは、愚かな幻想だったのだ。
僕は再び誰にも触れさせることのない凍てついた監獄の中で、ただ一人、静かに呼吸を再開した。
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