【小説】あの夏の光(3)『物語リクのスケッチブック「ガラスと、虹のかけら」』

『物語リクのスケッチブック「ガラスと、虹色のかけら」』

リクの、すべての世界は、彼の部屋の、四角い窓の中に、あった。
その、一枚の、薄いガラス。
それが、彼と、外界を隔てる、絶対的な、境界線だった。
ガラスの、こちら側は、すべてが手の届く場所にあり、音もなく、色も変わらない、静寂の世界。
あちら側は、絶えず何かが動き、予測のつかない音が響き、感情の気配に満ちている、喧騒の世界。
リクは、その、こちら側から、ただ、世界の、すべてを、観測し、スケッチブックに、写し取ることだけが、日常の、すべてだった。
彼の記録する風景の中には音はなかったが、時折、窓の外の公園から、まるで遠い星から届く信号のような、澄んだ少女の歌声だけは、風に乗って、彼の意識の隅にかすかな痕を残していた。
その声は、喧騒とは違う、不思議な静けさと響きを持っていた。
その日、リクは、一つの、小さな、現象を、観測していた。
窓の下の、公園で、誰かが、シャボン玉を、飛ばしていた。
風に乗って、生まれては、消えていく、はかない、虹色の、球体。
その中の一つが、ひときわ、大きく、そして、美しく、リクのいる、窓へと、ゆっくりと、近づいてくる。
リクは、息をのんだ。
あの、完璧な、虹色の球体を、消えてしまう前に、描き留めたい。
彼は、慌てて、鉛筆を、探す。
だけれど、焦るあまり、その手は、震え、鉛筆は、床に、転がり落ちてしまう。
ああ、間に合わない。
あの、美しいものは、記録されることなく、世界から、消えてしまう。
彼が、あきらめに、心を、支配されかけた、その時だった。

ガラスの、外側で。
公園を、歩いていた、その、シャボン玉の、存在に、気づいた。
(あの歌声の主かもしれない、とリクは不意に思った)
少女は、それが、リクのいる、建物の、ざらついた、煉瓦の壁に、ぶつかって、割れてしまいそうなのを、見て取った。

彼女は、駆け寄ると、シャボン玉を、壊さないように、そっと、その、進行方向に、回り込む。
そして、まるで、たんぽぽの綿毛を、飛ばすかのように、その、小さな唇から、ふぅ、と、優しい、息を、吹きかけた。

少女の、息を受けた、シャボン玉は、その軌道を、ふわりと、変え、煉瓦の壁を、避けると、再び、空へと、舞い上がっていく。

少女は、その、はかない、虹色の球体が、空高く、消えていくのを、満足そうに、見届けると、何事もなかったかのように、その場を、立ち去っていった。
彼女は、最後まで、この、窓の、内側に、リクがいることには、気づいていないようだった。

リクには、それが、誰のためでもない、純粋なものに見えた。
だが、彼にとっては、違った。

少女の、息によって、軌道を変えられた、シャボン玉は、最後に、一度だけ、リクの、窓ガラスに、こつん、と、触れたのだ。

音は、しない。
衝撃も、ない。
ただ、その、虹色の、薄い膜が、ガラスの表面で、静かに、弾け、そして、消えた。

後に、残されたのは。
窓ガラスの、その、一点にだけ、付着した、本当に、小さな、小さな、虹色の、光の『かけら』だった。
それは、拭けば、すぐに、消えてしまうほどの、はかない痕跡。
だが、その存在は、リクの世界が、完璧に閉ざされているという事実を、静かに、否定していた。
リクは、ゆっくりと、その、虹色のかけらに、近づく。
そして、震える指で、ガラスの、内側から、そっと、その、かけらを、なぞった。

何の、感触も、ない。
何の、温度も、ない。
だが、彼の、指先には、確かに、あの少女の、優しい息の温もりが、そして、あの澄んだ歌声の、微かな響きが、触れたような気がした。
リクは、自分の席に戻ると、転がり落ちていた、鉛筆を、拾い上げた。
そして、スケッチブックの、新しいページを、開く。
彼が、そこに、描き始めたのは、もはや、遠い、世界の風景ではなかった。
彼は、ただ、ひたすらに。
目の前の、窓ガラスに、確かに、存在する、あの、小さな、小さな、虹色のかけらを、描き写し始めた。

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