ひかりの誘いで図書委員となった蒼太。 だが、文化祭の企画会議でひかりの提案は現実に敗北。蒼太も恐怖で彼女を守れなかった。 しかし、涙する彼女に、蒼太は恋心を自覚する。 先生の提案した「ゲリラ展示」。それは、ふたりだけの静かな反乱の始まりになったが…
最初の、作戦会議
多数決で、一度は消されたはずの虹のかけら。
それは、たった三人の共犯者による静かな、しかし、確かな反乱として、今、再び、その産声を、上げた。
この絶望と希望と恋を、僕は『リクのスケッチブック』として、書かなければと思っていた。
その夜、僕は自室の机で、ノートパソコンの真っ白な画面と対峙していた。
『リクのスケッチブック』の新しい章。
僕は、あの図書委員会での、出来事をリクの物語に、置き換えようと試みた。
だが、書けなかった。
一文字も書けなかったのだ。
指が、キーボードの上を虚しく彷徨う。
あの委員たちの退屈で、しかし、揺るぎない諦めに満ちた瞳。
ひかりのたった一人で世界に立ち向かう、その凛とした横顔。
僕の手を上げることさえできなかった、あまりの不甲斐なさと自己嫌悪。
そして、最後に絶望からかすかな希望へと変化した瞬間。
それらのあまりに生々しい現実のディテールは、どんな巧みなメタファーよりも重く、そして、鋭利だった。
書けば、書くほど、それは嘘になっていく。
まるで、熱すぎる液体を薄いガラスに注いだ瞬間、容器が内側から嫌な音を立てて砕け散るのと同じだった。
僕が体験したあのどうしようもない現実の手触りが、綺麗な物語の言葉にした途端、死んでいくのだ。
僕は、ノートパソコンを閉じた。
書けない。
Libが、「次の展開を待っている」と言ったあの物語の続きが、僕には書けない。
ひかりと仲間になると決意した今の僕にはもう、ガラスの内側から世界を安全にスケッチすることなど、許されないのかもしれない。
初めて、踏み出したガラスの外側の世界。
そこは僕が物語を描くことさえできない、あまりに現実的な世界だった。
高槻ひかりのその手を取ったあの瞬間。
僕のガラスの世界が砕け散ったあの感覚。
僕はどこか無敵になったような気がしていた。
彼女が隣にいてくれるなら嵐の外側の世界も、もう怖くはないと。
だが、現実は物語のように劇的ではなかった。
それがわかった委員会だったが、僕達ふたりでも現実は同じだった。
僕たちの最初の作戦会議は、あの日の委員会が開かれた第二図書室で行われた。
広い会議室に、僕とひかりの二人だけ。
差し伸べられた手を取ったあの昂揚は、冷たい不安へと変わっていた。
僕の前に座っているのは、もはや、遠くで憧れている対象ではない。
僕の仲間。
僕に何かを期待している他者。
そのあまりの重圧に僕の心は、またガラスの内側へと逃げ込もうとしていた。
沈黙を破ったのはひかりだった。
彼女は、大きなスケッチブックと、数本の色鉛筆を机の上に広げた。
「えーっと、じゃあ、始めよっか! わたしたちの、反乱の、最初の、作戦会議!」
彼女は努めて明るく振る舞っている。
だが、その笑顔はどこかぎこちなく、あの委員会での敗北の傷跡が、まだ残っているように見えた。
「テーマは、『物語』、まずは、どんな展示にするか、アイデアを、出し合わない? わたし、考えてきたんだ!」
彼女は、そう言うとスケッチブックの最初のページを、僕に見せた。
そこには、カラフルなイラストと共に、「英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)」という文字が、踊っていた。
「有名な物語って、大体同じ構造なんだって! 平凡な主人公が、冒険に出て、試練を乗り越えて、宝物を手に入れて、故郷に帰る、っていう。例えば、古い神話とか、スター・ウォーズとか、ハリー・ポッターとか! その共通点をパネルにして紹介するの。そうすれば、物語の面白さがみんなに、わかりやすく、伝わると思うんだ!」
彼女のアイデアは、明るく前向きで、そして、誰にでも理解できる普遍的なものだった。
太陽のような彼女らしい企画だ。
僕の頭はそれを理解した。
だが、僕の心は、どうしても頷くことができなかった。
「…でも」
僕の唇から、ほとんど音にならないような、声が漏れた。
「でも、すべての、物語が、そうじゃない」
「え?」
「故郷に、帰らない、英雄もいる。宝物を、手に入れられない、主人公もいる。そもそも、旅にさえ、出ない、物語だって…ある」
僕が、愛してきた物語たち。
ガラスの部屋の中から、世界を眺めるだけのリクのような主人公たち。
彼らの声なき声が僕の中で叫んでいた。
僕たちの物語をそんな単純な地図に、当てはめないでくれ、と。
僕のその消極的な言葉に、ひかりの笑顔が、少しだけ呼吸を止めたように曇った。
その、一瞬、彼女の瞳の奥の光がかすかに揺らいだように、見えた。
僕には、その理由がわからなかった。
だが、それはすぐに、いつもの明るさで、覆い隠されてしまう。
「…でも、文化祭の、展示だよ? 多くの人に、楽しんでもらうには、わかりやすさが、一番、大事だと、思うんだけどな」
「……」
「神木君は、何か、アイデア、あるの?」
彼女のその問いに、僕は答えることができなかった。
僕の頭の中には、ただ、断片的なイメージしかない。
ひび割れたガラス。
虹色のかけら。
沈黙。
孤独。
そんな暗くて、個人的な心象風景を、文化祭の展示になどできるはずがない。
僕は、ただ、首を横に振ることしかできなかった。
気まずい沈黙が、流れる。
僕たちの最初の共同作業は、互いの見ている世界の、その決定的な違いを浮彫りにしただけで、終わろうとしていた。
僕はその日、家に帰り夕ご飯も食べずに、自室に籠った。
ノートパソコンを開いて、『リクのスケッチブック』の新しい章を書き始めた。
書けば、何かを書けば、僕らの状況が変わるかもしれない。
指が動き出した。
新しい物語を書き上げて、ふと顔をあげたら、窓の外から、月明りが差し込んでいた。
部屋の明かりも点けずに、僕は文字をタイプしていた。
そのとき、はじめて、あきらめたくないと思っている自分に気がついた。
そして、”まだ”すれ違うリクと少女を書いた、新しい物語をアップロードした。
リクと出会うその少女の名前を”ヒカリ”にした。

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