【小説】あの夏の光(8)『物語リクのスケッチブック「出会い」』
軋むような音を立てて、扉が開く。
リクの肌を撫でたのは、部屋の中の淀んだ空気とは違う、生きた風の感触だった。
音、匂い、光。
情報量が、あまりに多い。
一瞬、後ずさりそうになる足を、それでも前に進ませたのは、目の前に輝く、あの光の糸だけだった。
糸は、彼を導いた。公園の土の感触。すれ違う人々の感情の気配。
すべてがリクの感覚を鋭く刺し貫いていく。
彼は俯き、ただひたすらに光の帯を追い続けた。
やがて糸は、日当たりの良い小さな広場の中央にあるベンチへと吸い込まれていた。
そこに、彼女はいた。 あの日、シャボン玉に息を吹きかけた少女。
目を閉じ、小さなイヤホンを耳にして、何かを聴き入っている。
ときおり、その唇から、澄んだハミングが小さく漏れていた。
彼女の胸のあたりから、確かに光の糸が伸びているのを、リクの「目」ははっきりと捉えていた。
リクが逡巡していると、不意に、少女が目を開けた。
目が、合ってしまう。
「あの…」 かろうじて声を絞り出す。
「シャボン玉…です。あなたが、息を吹きかけた…」
リクは持っていたスケッチブックを開き、虹色のかけらのページを見せた。
少女――ヒカリは、その緻密なスケッチに目を丸くした。
「わあ…綺麗…。あなたが描いたの?」
「はい。そのかけらから、光の糸が伸びていて…それを辿って、ここまで来ました」
「光の糸?」
ヒカリはいよいよ不思議そうに自分の周りを見回した。
もちろん、彼女の目には何も見えていない。
「ごめんなさい、私、そういうのは見えないかな…。でも、面白い話だね」
彼女はリクの話を馬鹿にすることなく、純粋な好奇心の光を目に宿していた。
「私はヒカリ。あなたは?」
「リク…です」
「リクくんか。その光の糸って、リクくんにしか見えないんでしょ?特別な『目』なんだね、きっと」
初めてだった。
自分の見ている世界を、誰かに肯定されたのは。
リクは、勇気を出して続けた。
「ヒカリさんは…何を聴いていたんですか?」
「え?」
ヒカリは少し驚いてから、はにかむように笑った。
「聴いてたっていうか…歌ってたの。この場所の歌」
「場所の…歌?」
「うん。私、ちょっとだけ特別な『耳』を持ってるみたいで。物や場所が奏でる、小さな声みたいなのが聞こえることがあるんだ。さっきは、このベンチが昔の恋人たちを思い出してる、ちょっと切ないメロディが聞こえてた」
リクは息をのんだ。
光が見える自分と、音が聞こえる彼女。
「僕が見ている光も、そうなんだ」
リクは興奮して言った。
「感情の気配がある場所や、記憶が残っているものが光って見える。きっと、同じものなんだ。僕には光として見えて、ヒカリさんには音として聞こえるんだよ」
二人は、顔を見合わせた。
自分にしかわからないと思っていた世界の秘密。
それを分かち合える存在が、すぐ目の前にいる。
ずっと一人きりだったリクの世界に、初めて他者が入ってきた瞬間だった。
ガラスの壁が、音を立てて砕けていくような、歓喜が胸を満たした。
こんなに嬉しいと感じたのは、生まれて初めてだった。
その時だった。
ヒカリが、何気なく広場の古びた街灯の柱に、ぽん、と手をついた。
刹那、街灯のガラスが淡い虹色の光を放ったのを、リクは見た。
「あっ…!」 同時に、ヒカリが目を見開いた。
「今…新しい音がした。澄んだ、ベルみたいな音が…」
リクの目には、街灯から新たな光の糸が生まれ、近くの噴水へと繋がっていくのが見えた。
「噴水の方へ糸が伸びてる!」
「噴水…?あっちから、水のハープみたいな綺麗な音が聞こえる!」
二人は同時に駆け出した。
見えるリクと、聞こえるヒカリ。
同じ現象を、それぞれの感覚で捉え、同じ方向へと導かれていく。
だが、すぐに最初のすれ違いが起こった。
街中に光と音が溢れ始め、二人はその流れを追いかけていた。
やがて、道が二手に分かれる。 ヒカリの耳には、右の道へ向かうイキイキとした、楽しそうな音楽が、ひときわ大きく、鮮やかに聞こえた。 「こっちだ、リクくん! すごく楽しそうな音楽が、あっちに続いてる!」 ヒカリが興奮して右を指さす。
しかし、リクは左の路地を向いて、じっと目を見開いていた。 「ううん、ヒカリさん。あっちじゃない」 「え?」 「こっちだよ。ここから、すごく小さくて、寂しそうな光が放たれてる。消え入りそうな、か細い光が」 リクが指すのは、ヒカリの耳には何の音も聞こえない、薄暗い左の路地だった。
「でも、音楽は右に流れてる。こんなに賑やかで、みんなが喜びそうな音がしてるんだ。間違い無いよ」 ヒカリには、リクが指す路地の奥に、何の魅力も見出せなかった。
「音楽が賑やかでも、それはただ派手なだけかもしれない。本当に大切なのは、この小さな、孤独な光だよ」 リクは、ヒカリの言葉を聞き入れようとしなかった。 彼にとっては、自分の目が見る、この誰にも見えない光こそが、唯一の真実だった。
二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
リクは、胸が冷たくなるのを感じた。 自分の見ている、この切実な孤独の光を、彼女は見ていない。 そして、彼女が聞いているという普遍的な喜びを、自分は聞くことができない。
言葉を尽くしても、この気持ちは伝わらない。
感覚の違いという、決して越えることのできない壁が、二人の間に横たわっていた。
やっと見つけた、たった一人の理解者だと思ったのに。
ガラスの外に出てきても、結局自分は、ひとりぼっちで世界を見ているだけなのかもしれない。
リクは、再び分厚いガラスの内側へと押し戻されたような、深い孤独を感じていた

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