【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(1) 二台の自転車

1980年代おわり、北陸の夜明け。画一化された価値観と閉塞感が漂う中、揺れ動き、彷徨う自我を抱えた二人の高校生男子は自転車をこぐ。彼らの向かう先には何が。

二台の自転車

その日の朝、ふたりは夜明け直後の薄明かりの中、自転車をこいでいた。
空はまだ薄群青で、重い光を吸い込むようにどこまでも広がる灰色の画用紙のようだった。
北陸特有の空模様で、湿った冷気が肌を刺し、ひんやりとした空気が身を引き締めていた。
まだ暗さを残す道は、湿度に濡れているようだった。

「それにしても、肌寒いな!」
純也が後方の優一に振り向きながら叫んだ。
白い息が夜明け前の空気に溶ける。
優一も前方に叫び返した。
「まだ9月が始まったばかりだけど、朝は寒いんだね!夏は完全に終わったね!」

国道沿いを走る二台の自転車は、徐々に速度をあげていく。
人気のない歩道を我が物顔で走り、タイヤがアスファルトを捉える音さえ、不自然なほど消えていた。まるで地面を這う影のように、彼らは静かに進む。
時折、猛スピードのトラックが地響きを立て、ガードレールで隔たった車道をふたりを追い抜いて行った。鈍重な車体はけたたましい音を立て、夜の名残の闇を切り裂くように走り去る。
残された空気には排気ガスの匂いがまとわりついた。
そんなトラックのナンバープレートは決まって名古屋だ。
遠い街の記号は、彼らとは無関係な日常を象徴しているかのようだった。

純也が手で合図を送った。
優一は即座にブレーキをかけ、自転車を止めた。
優一は制服のポケットに手を突っ込んで腕時計を出し、時刻を確認する。
まだ午前5時30分だった。視線の先で、秒針が音も立てずに進んでいく。
純也は自転車の前カゴから缶コーヒーを2つ取り出し、1つを優一に手渡した。
静寂に包まれた国道に、缶コーヒーのプルタブを引く音が妙に大きく響く。
アルミ缶の冷たさが、朝の肌寒さに拍車をかけた。
冷えた缶が指先にひんやりと伝わり、優一は改めて夏が終わってしまったことを実感した。

ふたりが国道から学校へと続く細い道へ曲がる直前だった。
車の往来は途絶え、静寂がふたりの周りを包み込む。

「ちょっと予定より早いかな」
優一の声は、朝の冷気に震えているようだった。
張り詰めた緊張がその声の底に宿っている。
優一のそんな小さな動揺は、純也には気にもならないのだろう。
「いや、こんなもんだろ」
純也はぶっきらぼうにと答えた。
彼の声には、迷いも不安も微塵も感じられない。
「遅くなると、やれないから」
純也は、あくび混じりに言葉を続けた。
彼の目には、わずかな眠気と、何かを目論む不敵な光が同時に宿っていた。
「早朝ってのがポイントなんだよな。深夜だとかえって家族に怪しまれるからな」
「早朝なら、部活の朝練とか、色々言い訳が立つだろ?」
純也は、どこか得意げに計画の抜け目のなさを優一に語った。
缶コーヒーを一気に半分ほど煽り、「TOO FAST TO LIVE」と彼は呟いた。
その気障なセリフに、純也は自分で笑った。
その笑いは、優一の緊張を和らげるためか、それとも純粋に今を楽しんでいるか判然としなかった。

校舎が視界に入り、通学路の蓮畑の道に入ったところで、純也の自転車は減速した。
道の両側に広がる蓮畑はまだ深い眠りの中にあり、水面に薄い靄が立ち込めている。
校門の前に複数の人影が見えた。
大きなゴミ袋をいくつも運び出している。
ゴミ収集の作業員たちだ。
白いヘルメットに、無神経なくらい鮮やかな青い作業着を着ている。
彼らは黙々とゴミを運び、収集車に積んでいく。
機械的な無駄のない動作は、彼らの日常そのものを表していた。

純也は、止まらず行こうと目で優一に合図した。
その目は、「無視しろ」と語っていた。
作業員たちは自分たちの仕事に集中していて、脇を通り過ぎる自転車に一切目もくれない。
彼らにとって、朝の通学路を走る二人の少年など、風景の一部に過ぎないのだろう。

「だれもかれも無関心、人のことはどうでもいい」
優一がぽつりと呟く。
その声には、諦めと、ほんの少しの皮肉が混じっていた。
蓮畑の湿った空気が、彼の言葉を吸い込んでいく。
「だから、あのおばあちゃんも死んじゃったんだよな」
優一はさらに言葉を重ねた。
彼の頭の中には、先週あった出来事がはっきりと思い浮かんでいた。
高校の最寄りバス停の待ち合いベンチで亡くなった老女のことだ。
持病で意識を無くした老女に、多くの人が行き交う中で誰も気づかず、そのまま命を落とした事件。
地元の新聞に大きく“「無関心社会」への警鐘“

として報じられていた。
彼は、その話を聞いた時に感じた無力感、社会に対する憤りが、無意識の領域で彼の心を傷つけていた。

「そうだな、無関心に殺されたおばあちゃん」
純也の声には、特段の感情はなかった。
事実を述べるかのように淡々と、優一のナイーブさをどこか冷めた目で見ているようにも聞こえる。
そして、その後に続く言葉には、ただ感傷的な優一とは違う、純也のしたたかさを感じさせるものだった。

「ただ、それ、今日の俺たちには好都合だけどね」
二台の自転車は校舎の自転車置場に滑り込むように入っていった。
ふたりは自転車の鍵を抜きながら、意味もなく声を立てずに笑った。
その笑いは、共犯者だけが共有できる、密約のようなものだった。

「だいたい、制服着てたら、誰彼(だれかれ)の区別つかないだろうし、な」
優一が言った。
朝起きて、制服に袖を通すと、いつも自分というデコボコが均される気分になる。
個性も悩みも感情も、すべてが制服の下に隠され、画一的な「高校生」という記号に変貌する。
学校までの通学の時間で、優一の心はすっかりのっぺりとした、何の変哲もない整地になる。
一瞬、優一はそんなことを考えて、少し暗い気持ちになった。

ふたりは、校舎の裏側の校庭にのびる通路と、プールの隙間に潜り込んだ。
そこは陽の当たらない場所で、湿ったひんやりした空気が淀んでいる。
苔むしたコンクリートの壁が、何百年も前からそこにあるかのように佇む。

純也と優一は、その壁を前にお互いの顔を見合わせた。
「オレからいく」と純也は深く息を吐きながら言った。

純也は花壇のブロック塀に足をかけ、スニーカーのソールの内側で壁の苔を削ぎながら、壁によじ登っていった。
その動きはしなやかで、なんの迷いも感じさせない。
彼が掴んだ窓に、薄赤い朝日が反射して一瞬だけ光が踊る。
そんな純也を下から見上げる優一の顔は、緊張に引き攣っていた。

そんな雰囲気を察してか。
「カリオストロに忍び込むときは、ルパンだって緊張しただろうな」
上から優一を見下ろすように純也がにやりと笑って言った。
その言葉には、状況を楽しむかのような余裕が滲んでいる。
「中でも、もういっぺん校長室に忍び込むからな」と純也は続けた。
「そうだった」優一は、純也の言葉の真意を理解し、苦笑いした。
まだ計画実行は始まったばかりなのだ。こんなところでビビっているわけにはいかない。

純也は窓から音もなく忍び入った後、ポケットを弄り、何の変哲もない普通の鍵を優一に見せた。
その鍵は、校長室のものだった。
彼らは靴と靴下を脱いだ。
ひんやりとした床の感触が足の裏に伝わる。
脱いだ靴と靴下は、お互いの背中に背負った学校指定のオレンジのナップサックに突っ込んだ。
それは、彼らが痕跡を残さないための、ささやかだが重要な準備だった。

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