80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
ペダルと焦燥
夕暮れの光が、大きな窓から斜めに差し込んでいる。
空気中には、油絵の具とテレピン油の匂いが混じり合って、放課後の美術室特有の静かな熱気を帯びていた。
壁に立てかけられた描きかけのキャンバスたちが、まるで生徒たちの代わりのように、思い思いの姿でそこに在る。
名簿の上では男女合わせて20名ほどいる美術部員も、普段、この時間に集まるのは5、6人ほど。
そのほとんどが、名前だけの幽霊部員だった。
他の部員たちが談笑しながら帰っていく中、優一は一人、黙々と筆を洗い、パレットに残った絵の具を片付けていた。
早くこの場所から立ち去りたい。
その焦りが、自然と手を急かせる。
その時、ふわりと、優一の前に人影が留まった。
「優一くん、なんか元気ないね」
振り返ると、同じ2年の由香子が少し心配そうな顔で立っていた。
肩まで伸びた髪をゆるく一つに束ね、白いシャツの袖をまくった腕には、まだ絵の具が少しだけついている。
「先生が、これ観てこいって、くれたんだけど」
そう言って由香子は、指に摘んだ2枚のチケットを優一の目の前でヒラヒラと揺らした。
その仕草は少しだけぎこちなく、彼女の緊張を伝えてくるようだった。
急いで帰ろうとしていた優一の硬い表情を、彼女は見逃さなかったのだろう。
「県立美術館のウォーホル展。先生、無料招待券をたくさんもらったんだって」
由香子は、わずかに視線を泳がせながら、言い訳をするみたいに付け加えた。
女の子が男の子を誘う。
でも、それはあくまで先生に言われたから、という形をとりたい。
その健気な気持ちが痛いほどわかるから、優一は、どう断れば彼女を傷つけずに済むか、一瞬で頭を巡らせた。
「ごめん、今日はちょっと体調が悪くて…。もしかしたら、風邪かもしれない」
「それ、僕も観たかったんだ。会期、いつまでやってるかな。今日じゃなければ、ぜひ行きたいんだけど」
努めて穏やかな声でそう言うと、由香子の堅かった表情がぱっと緩んだ。
「そうなの?やっぱり元気ないと思った、風邪はやってるみたいだよ」
「うん、じゃあ行く日はまた相談しよう。来月の末までやってるみたいだし」
緊張が解けたように、由香子はふわりと笑顔を見せた。
その笑顔に少し罪悪感を覚えながらも、優一は会話を手早く切り上げる。
由香子とのやり取りを終えると、ほとんどカバンを引っ掴むようにして美術室のドアに向かった。
美術室の奥には、実質、顧問の安岡の部屋である美術準備室がある。
今日、安岡は放課後の間ずっと、その部屋から一度も出てこなかった。
ドアの向こうにいるであろう気配に、優一はずっと神経を張り詰めていたのだ。
もし出てきて何か言われたら、と考えると心臓が冷たくなる。
結局、顔を合わせずに帰れそうで、優一は心の底からホッとした。
息を殺すように廊下を抜け、自転車置き場へ急ぐ。
自分の自転車に跨ると、迷わず純也の家を目指してペダルを力いっぱい漕ぎ出した。
純也は部活に入っていない帰宅部だ。
今頃はもう家でくつろいでいるはずだ、くつろげる心理状態であれば。
ここから30分くらいで着くだろう。
夕暮れの風が頬を撫でる。
ペダルを漕ぐ足の重さと裏腹に、頭の中はぐるぐると渦を巻いていた。
優一は、まるでビデオを巻き戻すかのように、朝からの出来事を時系列に思い出していた。
校舎に忍び込み、美術準備室に入ったまさにその時、安岡が段ボールの陰で寝ていたこと。
校長室の絵を盗んだとき、校長室の鍵を開けようとした男がいたこと、そして、応接室の窓を開けたまま、逃げてしまったこと。
思い出すだけで、頭がクラクラするような不安が、冷たい塊になって胃のあたりに沈んでいく。
早く純也に会って、この最悪の状況について、話し合わなければ。
そして、もし何か打つ手があるのなら、一刻も早く考え出さなければ。
優一は、混乱した気持ちのままで、さらに強くペダルを踏み込んだ。
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