80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
写真の中のイディア
優一の心臓が早鐘を打っていた。
応接室に響くのは、彼の呼吸の音と、壁の時計が秒針を刻む音だけだった。
目の前では、校長が分厚い参考書を広げ、熱心に数式を解説してくれている。
だが、その声は少しも彼の頭には入ってこなかった。
その時、静寂を破って、電話の呼び出し音が鳴り響いた。
「すまない、少し待っていてくれ」
校長はそう言うと、電話を取るために隣の執務室へと向かった。
ドアが閉まる音を確認し、優一は息をのんだ。
作戦通りだった。
この電話は、純也が外からかけてくれているもののはずだ。
優一は制服のポケットから使い捨てカメラを取り出すと、壁のイディアにレンズを向けた。
そこに飾られているのは、一枚の鉛筆画の女性。
シンプルな襟付きのシャツを着て、まっすぐこちらを見つめている。
その射るように鋭い眼差しには、せつないほどの愛情が宿っていた。
いつ校長が戻ってくるか分からない。
焦りで指がうまく動かなかった。
カメラを構え、ファインダーを覗く。
急げ、急げ、と彼は心の中で繰り返した。
カシャッ。
そのシャッター音に、優一は自分で驚いて肩を跳ねさせた。
もう一枚撮る余裕などない。
ブレやボケで、せっかくのチャンスを台無しにしていないだろうか。
写真の出来を心配する間もなく、彼はカメラを素早くポケットにねじ込んだ。
その直後、執務室のドアが開き、校長が戻ってきた。
「待たせたね。さあ、続きを始めよう」
優一は何事もなかったかのように頷き、再び参考書に視線を落とした。
その日の学校からの帰り道、町の写真屋で現像に出した。
「このフィルム、1枚しか撮られてないけど、本当にいいの?」
写真屋さんは訝し気に、優一に尋ねたのだった。
数日して、現像が上がってきた。
心配していたが、ピントは合い、あの不思議な眼差しは鮮明に写っていた。
ただ、絵とは違い、何度見ても、胸に迫るあの気持ちが沸き上がってこなかった。
何時間も写真を眺め続けたが、心に響くものが全くなかった。
「眼差しは同じなのに…」
「写真だからかもしれない、紙におこしてみたらいいのか…」
画用紙を広げ、何本も鉛筆を削る。
写真を見ながら、夢中で描き始めた。
だけど、現実は残酷だった。
あの、射るような強さと、愛情深い優しさが同居した眼差しが、どうしても描けない。
鋭さを出そうとすれば、ただ意地悪な顔になる。
優しさを描こうとすれば、表情のない、ぼんやりした顔になってしまう。
「違う、これじゃないんだ…!」
描いては消し、描いては消しを繰り返す。
紙はすぐに汚れ、ザラザラになっていく。
部屋の隅には、くしゃくしゃに丸めた失敗作が、あっという間に山をなした。
何日か続けたある夜、彼はとうとう鉛筆を置いた。
目の前には、描き損じの、魂の抜けたような女の人の絵。
そして、その周りに散らかる無数の失敗作。
それを眺めているうちに、ふっと、すべての意欲が消えていくのを彼は感じた。
ああ、無理なのだ。自分には無理なんだ。
これ以上、何百枚描いたって、きっと同じだ。
あの絵の中の人は、自分が描けるような、そんな簡単な人ではなかった。
あんなに好きで、自分の手で生み出そうとまで思ったのに。
優一は描きかけの画用紙を裏返して、机の隅に立てかけた。
失敗作の山も、見えないようにゴミ袋に押し込む。
絵の中の彼女は、結局、遠い世界の人のままだった。
写真にすら手を伸ばすことを、もう、やめてしまおうと彼は心に決めた。
それでも、ただ捨てることはできず、机の引き出しの奥にそっとしまったのだった。
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