【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(17)由香子からの電話

80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…

由香子からの電話

優一が自宅の玄関扉に手をかけたのは、時計の針がとっくに深夜0時を回った頃だった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った郊外の住宅街。
等間隔に並ぶ街灯だけが、まるで知らない惑星にでも迷い込んだかのように、冷たい光をアスファルトに落としていた。
自転車をキーキーと音を立てながら玄関脇に止めると、ちょうどパトロール中なのだろう、自転車に乗った警察官が静かに横を通り過ぎていった。
その気配に、優一は後ろめたさを感じた。
そっと鍵を開けて家に入る。
玄関の小さな電球は、温かい色で優一を迎えてくれた。
しかし、その奥に続くリビングもダイニングも真っ暗で、人の気配はまったくない。
そのことに、ビールで火照った体がふっと軽くなるのを感じた。
両親はもう二階の寝室で眠っているのだろう。好都合だった。
優一は、床がきしまないよう、泥棒のように抜き足差し足で廊下を進み、まっすぐ風呂場へと向かった。
すっかりぬるくなった湯船に体を沈め、だらんと手足を伸ばす。
プラスチックでできた無機質な天井をぼんやりと眺めていると、今日の出来事がとりとめもなく頭に浮かんでは消えた。
純也の家で、彼の両親は結局、優一が帰る時間になっても戻ってこなかった。
思考がまとまらないまま、優一は何度か浅い眠りと覚醒を繰り返し、やがて風呂から上がると、濡れた髪もろくに乾かさずに自室のベッドに倒れ込んだ。

けたたましい目覚まし時計の電子音で、優一は目を覚ました。
階下のダイニングに下りると、そこにはいつもの朝の光景が広がっていた。
父親はテーブルの決まった席で、トーストをかじりながら黙々と新聞の文字を追っている。
キッチンからは、母親が朝食の準備をする小気味よい包丁の音と、食器のぶつかる音が聞こえてくる。
あまりにいつも通りで、昨日の非日常的な出来事がすべて夢だったかのような錯覚に陥る。
「優一、何時に帰ってきたのよ」
背後から飛んできた母親の声は、咎めるような響きを持っていた。
「来年は受験生なのよ。少しは自覚しなさい」
予想通りの言葉の続きに、優一はわざと聞こえないふりをして、冷蔵庫の牛乳を手に取った。
「そういえば昨日、川本さんって女の子から電話があったわよ」
母親の言葉に、優一の動きがぴたりと止まる。
川本由香子?なんの用で?
「風邪の具合はどうですかって、心配してたわ」
「……風邪?」
優一は自分がついた嘘をすっかり忘れていた。
「あなた、風邪引いてたの?」
母親が怪訝そうな顔でこちらを見る。
ああと思い出した。
「あなたが出かけてるって言ったら、すごく驚いてたわよ。あら、風邪じゃなかったのかしらって」
「なんだよ、それ!余計なこと言うなよ!」
思わず、語気が荒くなる。
自分のついた小さな嘘が、予期せぬ方向から暴かれそうになっている。
その焦りが、怒りとなって口から飛び出した。
「なによ、本当のことじゃないの。お母さんは何も知らないんだから」
母親も負けじと声を尖らせた。
そのやり取りが、さらに優一を苛立たせた。
(なんで由香子は、わざわざ家に電話なんかしてくるんだよ)
母親の追及よりも、電話をかけてきた由香子本人に対して、ふつふつと腹の底から怒りが湧き上がってきた。
親切心からだと頭では分かっている。
でも、その親切が、今の優一にとっては迷惑でしかなかった。
彼女の電話ひとつで、自分の嘘も、昨日の計画実行も、すべてが白日に晒されるような気がしたのだ。
(あいつとは、絶対にウォーホルの絵は観に行かない)
怒りにまかせて、心の中で固く誓う。
「あ、お母さん、もういい。朝飯、いらないから」
優一は吐き捨てるようにそう言うと、椅子を引くのももどかしく、玄関へ向かって走り出した。
背後で何かを叫ぶ母親の声が聞こえたが、もう振り返る気にはなれなかった。
勢いよく玄関のドアを開け、自転車に飛び乗ると、学校へと向かって力いっぱいペダルを漕ぎ出す。
(ほんとうに、ムカつく)
ペダルを踏み込むたび、怒りが新たなエネルギーとなって湧いてくるようだった。
その時、ふと、昨夜の純也との会話が頭をよぎった。
何をどうすればいいだという不安を口にする悲観的な優一に、純也はいつもの調子でからりと笑ってみせた。
「大丈夫だって。まだ何も起こってないんだからさ」
「いまあれこれ考えてもしょうがないだろ。何か起こったら、その時にまた考えればいい」
「それよりさ、早くあの子に会えよ。会えば、きっと、行動して良かったって思えるから」
そうだ。僕は、あの絵を取りに行くんだ。
朝一番、誰もいない美術室へ行って、あの筒を回収するんだ。
昨日の今日で、さすがに顧問の安岡も泊まり込んでいないだろう。
純也の言う通りだった。
不安で足がすくむ前に、行動を起こさなくちゃ。
僕は、イディアに会うために、リスクを取って行動したのだ。
彼女に会えれば、きっと、この胸のざわめきは喜びに変わるはずだ。
やって良かったと、心から思えるはずだ。
そうすれば、こんなちっぽけな不安なんて、きっと吹き飛んでしまう。
早く、彼女に会いたい。
そう思った瞬間、不思議と由香子への怒りはすっかり消え失せていた。
代わりに、優一の心の中には、イディアへの想いが静かに、しかし確かな存在感を持って広がっていく。
それは、幸せなような、切ないような、ワクワクするような、でもどこか悲しいような、今まで一度も感じたことのない不思議な気持ちだった。イディアに出会うまで、自分がこんな感情を抱くなんて知りもしなかった。
気づけば、優一のペダルを漕ぐ足は、怒りからではなく、焦がれるような期待感から、さらに速度を上げていた。 

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