【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(18)ふたりだけの部屋

80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…

ふたりだけの部屋

優一は、イディアを家に持ち帰るという、その目的を何事もなく成し遂げた。
太陽の光が埃っぽさを際立たせる朝の美術室は、思ったとおり空っぽだった。
顧問の安岡はもちろん、部員も誰もいなかった。
絵の具と油の匂いが混じり合った独特の静けさの中、優一は美術準備室から絵の入った筒を手に取った。
心は歓声に近い声をあげていた。
若干の後ろめたさと、ついに手に入れるという強烈な喜びが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って胸に渦巻いていた。
筒を学校指定のナップサックにしまい込む。
ずしり、と感じる。
それは画用紙一枚の重さではない。
これは、秘密と、そして罪悪感そのものの重みだ。
今日は土曜日。
午前中だけの授業だったが、優一にとって拷問のように長かった。
意識は何度も、机の横にかけたナップサックへと飛んだ。
先生の声は遠くに聞こえ、ノートに書き写す文字はどこか上の空だ。
あと1時間、あと30分……。
心の中で、授業の終わりをずっと待ち望んでいた。
休み時間、廊下は生徒たちの解放感に満ちた声で騒がしかったが、優一はその輪に加わろうとは思わなかった。
別のクラスの純也や由香子の顔がちらりと脳裏をよぎったが、今日、彼らと話す機会はなかった。
早く家に帰りたい。
早く、誰にも邪魔されない場所で、あのイディアに会いたい。
その思いだけが、優一を支配していた。
終業を知らせるチャイムが鳴り終わると同時に、優一は教室を飛び出した。
今日の午後は部活がある。
しかし、優一ははなから部活に行く気はなく、階段へと足を速めた。
誰にも声をかけられることなく、校門を出る。
自転車のペダルを漕ぐ足は、いつもよりずっと軽かった。
昼下がりの住宅街は静かで、時折すれ違う人々の姿もまばらだ。
不思議と、心は穏やかに澄み渡っていた。
もうすぐ、イディアと会える。
その確信が、優一の心を安らかにしていた。
家の玄関扉に手をかけ、勢いよく開けると、中から出てこようとした父親と危うくぶつかりそうになった。
がっしりとした肩が目の前に迫り、優一は慌てて一歩下がる。
「ただいま。お父さん、どうしたの? こんな時間に」
まだ昼過ぎだ。
いつもなら仕事で帰るはずのない時間だった。
「ああ、大事な書類を忘れてな、ちょっと家に取りに寄ったんだ。これから会社に戻るよ」
父親はそう言うと、優一の顔をちらりと見た。
「お前こそ、今日は部活はなかったのか?」
「うん、まあ、ちょっとね」
 優一は曖昧に返事をしながら、急いで靴を脱ぎ、家に上がった。
早くこの場を離れて、自分の部屋に行きたかった。
「ただいま」
もう一度、家の奥に向かって声をかけたが、いつも聞こえるはずの「おかえり」という母親の声は聞こえなかった。
「お母さんは用事で出かけてるぞ」
背後、玄関の方から父親の声が飛んできた。
それを聞くと、優一は自分の部屋がある二階へと、とんとんと軽い足取りで階段を登った。
母親がいない。
それは、今の優一にとっては何よりも好都合だった。
誰にも見られず、誰にも何も聞かれずに、イディアと対面できる。
自室に入ると、優一はまず静かにドアを閉めた。
閉めたドアに背を預け、階下の物音にじっと耳を澄ませる。
やがて、玄関のドアが閉まる音と、車が走り去るエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえた。
家に、誰もいない。
その事実をはっきりと認識した瞬間、急に胸がドキドキと大きく鳴り始めた。
ドア一枚隔てただけのこの空間が、今は世界で一番安全な聖域に思えた。
はやる気持ちを抑えながらナップサックに手を伸ばすが、なぜか指先が思うように動かない。
「はは……緊張してるなぁ」
優一は自分に言い聞かせるように独り言をこぼし、苦笑した。
一度、深呼吸をしてから、ゆっくりとナップサックを開ける。
奥から、硬い筒を取り出した。
まるで貴重なワレモノを扱うかのように、慎重な手つきでキャップを開け、中からトレーシングペーパーにそっと包まれたイディアを取り出す。
筒の中にあったせいで、画用紙はくるりと丸まっていた。
それを両手でそっと広げ、目の前に掲げる。
瞬間、急速に胸の高鳴りが静まっていくのを感じた。
そして、静まった心に、冷たい水が広がるような、奇妙な感覚が訪れた。
「……ううん?」
優一は思わず、怪訝な声をあげた。
画用紙には確かに、あのイディアが描かれている。
白い画用紙に浮かび上がる、射るような眼差しの女性。
あの恋い焦がれたイディアが、今、自分の目の前にいる。
けれど、何かが違う。
校長室で会うたびに感じていた、魂を鷲掴みにされるような、あの感覚が全く蘇ってこないのだ。
「そんなはずは……」
優一はすぐに、クローゼットから手持ちの額を手に取った。
そうだ、丸まっていた画用紙の歪みのせいだ。
平らな額に入れれば、きっとあの時の感動が戻ってくる。
本当はそんなことが影響するはずはないと頭のどこかで分かっていたが、どうしてもそう思いたかった。
額にきっちりと収め、机の上に立てかける。
そして、椅子に座って目の高さを合わせ、イディアの強く射るような瞳を、正面からじっと見つめた。
窓からは、まだ高い位置にある昼下がりの太陽が、白っぽい強い光を部屋に投げかけている。
その光が、イディアの横顔を硬質に照らし出した。
何分間、そうして見つめただろう。10分か、あるいは30分か。
けれど、どれだけ待っても、校長室で感じた、わけもなく涙が溢れ出てくるような、狂おしいほどの感情は、心のどこにも現れなかった。
目の前にあるのは、ただの美しい、けれどどこか空虚な女性の絵でしかなかった。
時間の経過とともに、あれほど明るかった陽の光も次第に傾き、部屋に差し込む光が頼りなくオレンジ色へと変わっていく。
その中でひとり、優一は呆然としていた。
「一体、なんだったんだろう」
心の中で、何度もその言葉を繰り返す。
「僕が、イディアに感じた想いは、一体なんだったんだろう」
しばらくして、ふっと我に返ると、優一は無言で立ち上がり、額を近くにあった段ボール紙で無造作に包んだ。
そして、それをベッドの下の、暗い隙間に押し込んで隠した。
もう、見たくなかった。
どっと、全身から力が抜けていく。
言い知れぬ虚無感が、冷たい霧のように全身を覆っていくのを感じた。
優一は、ベッドに倒れ込むように身を投げ出した。
制服も着替えないまま、ただ、白い天井を、ぼんやりと見つめる。
「一体、なんだったんだろう……」
その問いだけが、静まり返った部屋の中で、虚しく響いていた。

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