80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
日曜の朝の電話
階下から響く「電話よ、優一」という母親の声で、優一はゆっくりと意識の縁から浮上した。
カーテンの隙間から差し込む光は、白っぽく、部屋の隅々にまで静かに満ちている。
紛れもない、朝の光だった。
枕元の時計に目をやると、針はとっくに授業の始まる時間を指していた。
心臓が小さく跳ねたが、すぐに今日は日曜日だったことを思い出し、体から力が抜けていく。
「優一、川本さんから電話よ」
再び母親の声が、階段を上がって優一の耳に届いた。
川本さん、という響きに、昨日の出来事がぼんやりと蘇る。
ベッドの縁から身を乗り出して下を覗くと、案の定、くたびれた段ボール紙の端が見えた。
それを見た途端、昨夜の虚しさが再び胸に広がり、暗い気持ちがよみがえった。
結局、あのまま何もせず、朝まで泥のように眠ってしまったのだ。
由香子からの電話か。
一昨日の、あの余計なお節介な電話の記憶が、不快な気分を連れてきた。
きっと、また美術館への誘いに違いない。 (絶対に、あいつとウォーホル展に行くものか)
優一は重い体を起こした。
寝癖のついた頭を掻きながら階下のリビングへ降りると、母親が訝しげな顔でこちらを見ている。
その視線をやり過ごし、保留音を鳴らし続けている電話の受話器を、わざと億劫そうに取った。
「もしもし」 意識して、不機嫌さを声色に乗せる。
「もしもし」 電話の向こうから、女性の声がした。
静かで、少し大人びた響きだ。
「もしもし……」
聞き覚えのある由香子の、のんびりしたやさしげな声ではない。
そのことに気づき、優一は眉をひそめた。
「もしもし、優一くん」
女性が、楽しむように優一の名前を呼んだ。
その声の持ち主が脳裏に浮かんだ瞬間、優一の心臓が大きく鳴った。
「……マキさん、ですか?」
思わず、自分でも驚くほど大きな声が出た。
「そうよ、マキよ。よくわかったわね」
電話の向こうで、彼女がくすくすと笑う気配がした。
「そりゃあ、わかるよ、なんで、どうして、マキさんが……」
遠巻きに母親がこちらのやり取りを気にしているのも忘れ、優一は興奮気味に言葉を続けた。
「先週からこっちに帰ってきててね。昨日、部活に顔を出してみたのよ。そしたら由香ちゃんくらいしかいなくて」
マキさんの声は、相変わらず悪戯っぽく響く。
「優一くん、昨日さぼったでしょう」
「ええ、まあ……」
優一は曖昧に言葉を濁した。
「それでね、由香ちゃんと話してて、今日、優一くんも誘ってウォーホル展に行こうってことになったの。チケットは先生が余分にくれたんだよね」
「マキさん、いつまでこっちにいるんですか?」
「ちょっと事情があって、しばらくはいるつもり。細かいことは会った時にでも話すわ」
「で、優一くん、今日、大丈夫だよね?」
「はい、今起きたばっかりですけど、すぐ準備します」
「純也くんも誘ってみたら? チケットはあるし」
「そうですね、声かけてみます」
「あ、ちょっと待って。由香ちゃんに代わるね」
一瞬の間があって、聞き慣れた声が耳に届いた。
「あ、もしもし優一くん」
「急にごめんね。マキさんが、優一くんにも電話してあげてって言うから」
「一昨年も電話したの」
気まずそうな由香子の声に、さっきまでの不機嫌な気分はすっかり消えていた。
「ううん、いいよいいよ。電話してくれてありがとう」
心から、そう思った。
「マキさん、戻ってたんだね」
「そうなの。私も昨日、突然学校に来て本当に驚いたんだから」
「そっか。じゃあ、また後で」
「わかった。お昼前くらいには美術館に着くようにするよ」
「じゃあ、美術館のエントランスで待ち合わせ、ね」
優一は、高揚した気持ちのまま受話器を置いた。
美術部の先輩だったマキと会うのは、彼女の卒業式以来だ。
今年の春に東京の美大に進学したマキは、確かな画力はもちろん、絵画や音楽、文学に対する深い知識と独自の視点を持っていて、優一にとって何よりも話が合う、唯一無二の存在だった。
卒業して会えなくなってからも、新しい絵を描き上げるたび、面白い本や音楽に出会うたび、何度となく「マキさんだったら、これをどう見るだろう」と思った。
ときどき、手紙を書いたり、電話したり、かかってきたけれど、なかなか会えないままになっていたのだ。久しぶりに会って、また色々な話ができる。
そう思うだけで、胸が躍った。優一は弾むような気持ちのまま、純也に電話をかけるため、再び受話器に手を伸ばした。
「あっ」その時、脳裏にイディアの眼差しがフラッシュバックした。純也にイディアへの想いが蘇らないことを、どう伝えたら良いのか。でも、このまま黙っているわけにはいかない、言い出せるかわからないが、美術館に行く前に、純也の家に寄ることにした。
窓の外の光が、先ほどよりもずっと明るく見えた。
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