【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(2)朝の侵入

1980年代おわり、北陸の夜明け。画一化された価値観と閉塞感が漂う中、揺れ動き、彷徨う自我を抱えた二人の高校生男子は、早朝の校舎に侵入する。その目的は?

朝の侵入

「あぁ、怖じ気ずくって、こんな気持ちのことか」
優一のささやき声が、朝の静けさにとけていく。
廊下で中庭からの光を見つめる彼の瞳に、朝焼けのオレンジ色が微かな動揺を映す。
純也は優一の横顔を見て、小さく笑った。
「いままで、お前、怖じけずいたことなかったのかよ」
その声には、からかいと長年の付き合いで培われた理解がにじむ。
軽はずみな行動をしない優一が「怖じ気ずく」と言ったことが、純也の心を揺らした。

「なかったみたい」
優一も微かに口元を緩めた。
自嘲的というより、新しい感情への戸惑いと好奇心が混じった笑みだ。
胸のざわめきは知らなかった感覚で、自分の内に新しい広がりを感じるようだった。
純也は鼻を鳴らし、見透かしたような笑みを浮かべた。
「いままで本当に欲しいものがなかったんだな、お前」
純也の言葉は、優一の核心を突く。
「本当に欲しいもの」という飢えとは無縁だった優一。
純也の言葉は、彼の内側にあった、今まで意識していなかった空っぽのスペースを刺激した。

「なに、どういう意味?」
優一の問いかけに、純也は小さく首を振った。
「ま、後でな、さ、いこう」


純也の視線が宙をさまよう。
頭の中の計画を再確認するようだった。
彼の瞳には燃える炎のような気持ちが宿っている。
純也はいつも衝動的で危なっかしいが、その裏には計算があることを優一は知っていた。

「まずは美術室、まずは美術室、まずは美術室」
純也は呪文のように繰り返した。高揚と緊張が入り混じった独特の響きだ。
「まずは、美術室だろ、わかってるよ」
優一は純也の高ぶりをなだめるように、なるべく落ち着いた声で返そうとした。
彼は純也の自由さを理解し、それを補完する自分の役割を自覚していた。

「そう、まずは美術室に行って、例の筒をピックアップするだろう。それから、校長室に入って、奥の応接室に進む」 純也は頭の中で描いている経路を一つずつ確認するように口にした。
何度もシミュレーションしてきたような気配が伝わってくる。
彼の瞳は、興奮を隠しきれずに普通じゃない光を放っていた。

「宿直室の前は通るだろ。いまからそこを過ぎれば楽勝」
優一は、校舎に侵入できて少し安堵していたが、気を引き締めた。
宿直室は、彼らにとって最大の難関だったからだ。
そこさえ通過できれば、あとは人に見つかる可能性は低い。
緊張が高まる優一の心には、他にも言葉にならない気がかりが残っていた。
それは、この計画が、彼自身の平穏な日常を揺るがすかもしれないという、漠然とした予感だった。


「今日の宿直は、あいちゃんだから、仮に足音がしても出てこないさ。それも計算済みだ」
純也はささやき声だが、得意げな口調だった。
彼からは全く緊張を感じられなかった。
彼の言葉には、すべてが思い通りに進むという、自信が満ちていた。
今回の計画での彼の情報収集と大胆不敵な行動力は、優一を驚かせた。
今回の計画の実行も純也の資質のたまものと言えるだろう。
優一ひとりでは計画も実行も、いや、この行動自体、思いつきもしなかっただろう。

「さぁ、さっさといこう。他のやつが出てきたら厄介だし」
純也の言葉に、優一は軽く頷いた。彼の胸の鼓動が、急に速くなるのを感じた。
それは、恐怖とも違う、緊張を伴う強い興奮だった。
ナップサックを背負い直すと、ふたりは四つん這いになり、這って長い廊下を進み始めた。
彼らの動きは、まるで訓練された工作員のようだった。
音を立てないように、しかし俊敏に、廊下の床を滑るように進んでいく。
彼らの影は、夜の名残がのこる薄暗い廊下の奥へと、長く伸びていた。
廊下の中庭側の窓からは、朝焼けのオレンジから少しずつ透明度を上げていく朝日が差し込んでいる。その光は、まだ眠りから覚めきらない校舎の内部に、幻想的な光の帯を作り出していた。
しかし、その光は、彼らの存在を浮き彫りにすることはなかった。
彼らは、光と影の狭間を縫うように、静かに、しかし確実に前へと進んでいく。
外からは、彼らの人影が映ることもなく、ただ静かに、一日の始まりだけが感じられるばかりだった。彼らの周りの空気は、張り詰めた緊張感と、どこか難しいゲームに挑戦するときに感じる高揚感で満たされていた。

朝の静けさの中でニワトリが、近くの空で高らかに鳴いた。
その声は、夜明けを告げる合図であり、彼らの行動を急かすかのように響いた。
ふたりは這って、最初の目的地の美術室の前までたどり着く。
優一は身を低くしたまま、美術室の引き戸に手をかけた。
ひんやりとした木の感触が、彼の指先に伝わる。
「スッ…」と、わずかな音を立てて引き戸が開いた。

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