80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
ウォホール展
夏の終わりの日差しが、県立美術館のガラス張りのエントランスに反射していた。
優一と純也は、少し離れた場所に立つ二人の女性を見て、言葉を失っていた。
一人は由香子。
清楚なワンピース姿だ。
だが、もう一人の女性、マキの姿は、二人の記憶にある彼女とはまるで別人だった。
肩まであった黒髪は、鮮やかな金色に染められている。
体にフィットしたデニムのミニスカートからは、細い脚がまっすぐに伸びていた。
くるぶし丈のソックスに、ケッズの緑色のスニーカー。
その組み合わせが、彼女にとても似合っていた。
「マキさん……だよな?」
純也が呆然とつぶやく。
優一も頷くことしかできない。
高校を卒業して東京の美大に進学したマキとは、久しぶりの再会だった。
風が吹くたびに揺れる金髪と、以前よりも少し大人びた表情に、心臓が小さく音を立てるのを感じた。
「ひさしぶり!」
隣で控えめに微笑む由香子の、上品な花柄のワンピースが、マキの存在感を一層際立たせていた。
マキは悪戯っぽく笑いかける。
その表情に、昔の面影が重なる。
純也は意味もなく喉を鳴らし、優一はなんとか「マキさん、すごく…変わったね」と絞り出した。
「そう? 普通だけど」
4人は展示室へと向かった。
カラフルなシルクスクリーンが壁一面に並んでいる。
マリリン・モンロー、キャンベル・スープ缶。
ポップアートの世界が、4人を現実から少しだけ引き離した。
ここに来る直前、純也から優一は頼まれた。
「由香子のことが好きなんだ。今日、告白する」
だから今日のこの集まりは、優一にとって一つのミッションでもあった。
なんとかして、純也と由香子を二人きりにする。
優一は、自分の中にある、なにか割り切れない気持ちに気づいていたが、
それが友達としての役目だったと思っていた。
館内は、週末の午後ということもあり、多くの鑑賞者で賑わっていた。
「ねぇ、混んでるしこれだけ広いんだし、二組に分かれて回らない?」
優一が、作戦を開始した。
優一が提案すると、三人は顔を見合わせた。
「どうやって分かれるの?」と由香子が尋ねる。
「そうだね、あれだ、グーチョキパーで」
マキは、一連の優一の様子を見て、怪訝そうな顔をしていた。
そんなマキに、優一はマキだけわかるように、そっと目配せをした。
手をチョキの形にして見せた。
マキは、なにか理解したように微かに頷いた。
優一とマキは『チョキ』を出す。
純也は『チョキ以外』を出す。
そうすれば、由香子が何を出すかによって、純也と由香子がペアになる確率がぐっと高まる。
「さいしょはグー、ジャンケン、ポン!」
4つの手が、展示室の柔らかな照明の下に差し出される。
優一、チョキ。マキ、チョキ。
純也は、固く握ったグー。
そして由香子の手は、優しく開かれたパーだった。
結果は明白だった。
チョキを出した優一とマキのペア。
そして、グーとパーを出した純也と由香子のペア。
純也の顔に、あからさまな緊張の色が浮かぶのを、優一は見逃さなかった。
由香子は少し意外そうな顔をしたが、すぐに「じゃあ、純也くん、行こっか」と歩き出した。
ぎこちなく歩き出す二人の背中を見送り、優一は小さな達成感を覚えた。
「さて、と、我々も行きますか」
隣でマキが言う。
その声には、優一の企みを見透かしたような響きがあった。
言葉少なに作品を見て回った。
電撃的な色彩の作品群は、どこか現実感を失わせる。
優一は、目の前のアートよりも、隣を歩くマキの存在に、心を奪われていた。
ふわりと香る、知らないシャンプーの匂い。
時折、腕が触れ合うたびに、意識がそちらへ引き寄せられる。
優一は、今朝までイディアのことで落ち込んでいた自分を思い、節操がない自分に苦笑した。
やがて、彼らは短いドキュメンタリー映画を上映している小部屋にたどり着いた。
『ファクトリーの日々』と題されたその映画は、ウォーホルのアトリエの様子を映し出しているようだった。
「ねぇ、マキさん、これ、見ていかない?」
ここで時間を潰せば、純也と由香子は二人きりの時間を長く過ごせる。
マキも優一の意図を察したのか、黙って頷き、人影もまばらなシアターの席についた。
スクリーンの光だけが、二人の顔をぼんやりと照らし出していた。
しばらく無言で映像を眺めていたが、やがてマキがぽつりと口を開いた。
「優一くんって、優しいよね。純也くんのために」
「……まあ、友達だから」
気恥ずかしさを隠すように、優一は答えた。
マキは小さく息をつくと、東京での生活について小声で話し始めた。
刺激的な仲間たちとの日々。
昼も夜もなく作品制作に没頭する狂熱。
そして、先輩でもある彼氏の話。
「アーティストだから、すごく変わってる人でね。才能はあるんだけど、そのぶん、すごく……」
言葉を切り、マキは膝の上で指を組んだ。
「いろいろあって、ちょっと揉めちゃって。少し距離を置きたくて、それで帰ってきたんだ」
その横顔には、東京で見せる華やかな笑顔とは違う、微かな疲労と寂しさの色が滲んでいた。
優一は、かけるべき言葉を見つけられずにいた。
不意に、マキが優一の方を向いた。
「そういえばさ、優一くんの『イディア』はどうなの? 」
その名を聞いた瞬間、優一の心臓は氷水で掴まれたように冷たくなった。
イディア。
あんなにも心を奪われていたのに、今はもうその気持ちも失われてしまった。
「あー……あれは、もう……」
言葉が喉に詰まる。
絵を盗んだことも、その絵を見ても今は何も感じないということも、言えるはずがなかった。
優一の表情から何かを察したのか、マキはそれ以上何も聞かず、再びスクリーンへと視線を戻した。
映画が終わり、二人がは部屋を出ると、ゆっくりと展示を見て回った。
出口で純也と由香子が待っていた。
純也の顔は少し赤い。
由香子は、どこか吹っ切れたような、穏やかな表情をしていた。
「お、おまたせー」
優一が声をかけると、純也は意を決したように口を開いた。
「ごめん、優一、マキさん、俺たち、この後もう少し二人で話したいことがあるんだ」
「おう、わかった。じゃあ、僕らここで」
優一は快く送り出した。
作戦は成功したようだ。
よかった。
「じゃあね、優一くん、マキさん」
由香子が二人に頭を下げた。
その時、彼女は優一の顔をじっと見つめた。
その瞳は、何かを訴えているように見えた。
視線だけで何か伝えようとしているかのように。
優一は、それをただ居心地が悪く感じていた。
純也と由香子の後ろ姿が見えなくなる。
二人きりになった沈黙の中、マキが優一の袖を軽く引いた。
「由香ちゃんは、優一くんが好きなんだよ、知ってるよね」
優一はその言葉に返す言葉が見つからなかった。
「まぁいいわ、ねえ、この後、連れていきたいところがあるんだけど」
マキはいたずらっぽく笑っていた。
その笑顔は、昔と少しも変わらないように見えた。
「どこへ?」
「着いてのお楽しみよ」
秋の気配の空気が、二人の間を通り過ぎていく。
優一は、マキのケッズの緑色のスニーカーが、アスファルトの上で軽やかなステップを踏むのを、ただ黙って追いかけた。
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