80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
幸福感をまとって
重厚なオーク材の扉を開けると、そこは現実から切り離されたようなオーセンティックな空間だった。
浅野画廊の地下にある絵画バー「マーキームーン」。
壁に飾られた絵画たちは、落とされた照明の中で静かに呼吸しているように見える。
カウンター席の向かいに立った浅野がちょっとふざけたように優一とマキに聞いた。
「アメリカとドイツどっちがいい?」
そのやり取りが初めてじゃないのか、マキがまたかぁという感じで「ドイツ!」と答えた。
「優一くんはアメリカにしとけば」
「は、はい」
何のことかわからない優一は曖昧に答えた。
すると浅野は、マキの前のコースターにハイネケン、優一にはバトワイザーを置いた。
ふたりで並んでグラスを傾けた。
そこに、店の奥から安岡が姿を現した。
「お前たち、なに飲んでんだよ」
「ドイツとアメリカ」とマキが答えると
「そういう話じゃない」と安岡が苦笑いする
「まぁ、いいじゃない、俺が出したんだよ」と浅野。
「優一くんは一杯だけにしとこうね」とマキが言うと、
「そういうマキもまだ18歳だろ」
と安岡が言って、全員で笑い、和んだ雰囲気になった。
「そろそろ、優一に絵を見せようかな」
安岡の穏やかな、しかしどこか芯のある声に、優一は顔を上げた。
ギャラリーの壁が一部へこんで作られているアルコーブを顔で指した。
安岡がうながして、優一が席を立った。
安岡が先導するかたちで、壁の一部をくぼませた空間の壁の前まで歩いた。
その壁に掛けられていた一枚の絵を、優一は見て絶句した。
まぎれもない、リドリー・ライトの「イディア」だった。
校長室の応接室に飾られていた、あの絵。
線は力強く、魂を直接揺さぶるような圧倒的な存在感を放っていた。
優一は驚いた。
あの日、校長室の応接室で初めてこの絵を見たときの同じ、全身の血が逆流するような衝撃と高揚感。
彼の内側から沸き上がってきたのだ。
言葉をなくしている優一に、安岡は静かに言った。
「本物の『イディア』だよ」
安岡はゆっくりと、種明かしをするように語り始めた。
「優一と、確か…純也くんだったかな。お前たちが美術準備室に忍び込んだあの朝、俺が準備室で寝ていたのは知ってるよな。物音で目が覚めてな。息を殺して様子を窺っていたんだよ」
優一はハッとして安岡の顔を見つめた。
あの朝、自分たちの行動は、やはり見られていたのか。
「美術室を出ていくお前たちを追って、校長室まで行った。だが、俺が入ったときには、もうお前たちの姿はなかった。ただ、応接室の窓が開いていた。そして壁の絵が、差し替えられていることに気づいたんだよ」
安岡は、悪戯を見つけた教師のような、それでいてどこか面白がるような笑みを浮かべた。
「なかなかよく描けていたよ、優一の模写は。愛がこもっていた」
「愛がこもっている理由…、あぁ、絵を盗んだ理由も、昨日、マキに話を聞いて理解したよ」
マキはバツが悪そうに微笑んだ。
「優一くん、ごめんね、優一くんとイディアの話、しちゃったんだ」
その言葉に、優一は顔を伏せるしかなかった。
「あの絵には、少しばかり複雑な事情があるんだよ」と、安岡は続けた。
「あれは、俺がニューヨークで一緒に絵の修行をしていた友達が、リドリー・ライト本人から預かったものなんだ」
安岡の視線が、遠い過去を見つめる。
「その友人の名は、松永秀幸。ヒデユキ…うちの校長の、一人息子だよ」
「え…」優一は声を漏らした。
「ヒデユキは才能のある男だったが、ドラッグに溺れてしまった。リドリーも当時、同じだった。リドリーは、ドラッグの代金の代わりに絵を持っていかれそうになり、親しくしていたヒデユキに『イディア』を預けたんだ。『絶対に誰にも渡すな』と言ってね。だが皮肉なことに、ヒデユキ自身がドラッグ禍から抜け出せず、ニューヨークで命を落としてしまったけど」
バーカウンターの琥珀色の液体が、静かに揺れた。
「俺は、そんなヒデユキの父親である校長先生に拾われる形で、この高校に雇われた。日本に帰ってきてもブラブラしてる俺を見かねてね。親父さんにとっては息子への罪滅ぼしの代わりのつもりだんだろうけどな。親父さんは、ヒデユキとは価値観の違いから折り合いが悪かった。絵をやることも、美大に入ることも、ニューヨーク行くことも認めていなかったんだよ。だが、ヒデユキが亡くなってから、彼の生き方や、彼が愛した芸術を、少しずつ理解しようとするようになったんだ」
安岡は、目の前の「イディア」に目をやった。
「NHKでリドリー・ライトの特集番組が放送されただろう?あの翌日だよ。あの番組のドキメント映像のパートに俺たち3人が映っていたんだよ。あの番組を食い入るように見ていた親父さんのために、イディアを応接室に飾ったんだよ。普段は、このマーキームーンの壁に掛かっている」
「僕たちが盗んだあの絵は…」
「ああ、あれは本物だ」安岡は笑みをうかべて答えた。
「じゃぁ、なんでここに本物があるんですか、本物はうちに…」
と優一が言いかけると、安岡は少しおどけた声で続けた。
「優一が美術室に残していった筒から、本物は俺が回収させてもらったよ」
「そして、代わりに俺があの日、突貫で描いた模写を入れておいた。優一の絵ほどじゃないが、まあまあの出来だろう」
すべてを理解した優一は、言葉を失った。
自分が持ち帰ったイディアをどれだけ見つめても、あの感情が沸き上がってこなかった理由がわかった。
目の前の本物の「イディア」と、安岡の静かな種明かしが、優一の気持ちにかかっていた霧を晴らしていった。そして、自分のイディアへの感情が蘇って、幸福感を全身にまとっているようだった。
コメント