【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(24)見つめ合うふたり

80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…

見つめ合うふたり

ほの暗い照明が、壁に並ぶ絵画の輪郭を柔らかく浮かび上がらせる。
浅野画廊の地下にある絵画バー「マーキームーン」
その空間は、まるで時が止まったかのような錯覚を優一に与えた。
「本物のイディア」
目の前にある本物は、まったくの別物だった。
その存在感に、優一は息を呑んだ。
感動という陳腐な言葉では言い表せない、魂の根幹を揺さぶられるような衝撃。
優一はゆっくりと絵に近づき、イディアと正面から向き合った。
射るような、それでいて憂いをたたえ、愛情が溢れ出すような瞳。
その眼差しに見つめられていると、不思議な感覚に襲われた。
どこからか、優しく、しかし力強い旋律が聞こえてくる気がする。
それはイディア自身が奏でている音楽のようだった。
弦楽器のようでもあり、女性の歌声のようでもある、切なくも美しいメロディ。
その音にじっと耳を澄ましていると、ふと、別の旋律がすぐ近くから聞こえてくることに気づいた。
それは、より低く、静かで、それでいて確かな存在感を放つチェロのような音色。
二つの旋律は、反発することなく、むしろ互いを補い合うように、空間で溶け合っていく。
音の出どころはどこだ? 優一はゆっくりとあたりを見回した。
背後に、誰かの気配を感じる。
そっと振り返った優一の目に、一枚の絵が飛び込んできた。
そこにあったのは、鉛筆で描かれた一枚のデッサン。
イディアがかかる壁の反対側の壁にかけられている。
しかし、その力強いタッチと、描かれた人物から放たれるオーラは、優一の視線を釘付けにした。
このタッチは、リドリー・ライトそのものだ。
そして、そこに描かれているのは、紛れもなくリドリー自身の自画像だった。
優一は、何かに弾かれたように、思わず一歩、横に身をずらした。
その瞬間、優一は息を止めた。
彼が動いたことで生まれたその空間により、イディアとリドリー・ライトの自画像が、まっすぐに見つめ合う形になったのだ。
イディアの眼差しは、鑑賞者である優一ではなく、対面する壁のリドリーに向けられていた。
そして、リドリーの自画像もまた、静かにイディアを見つめ返していた。
「驚いたか」
静寂を破ったのは、安岡の声だった。
「優一がNHKの番組で見た『イディア』、正確には『チェルシーホテルのイディア』だけど、リドリーがニューヨークの画商に依頼されて描いた、いわば『商品』としての絵だ。もちろん、それも素晴らしい作品だがね。だが、ここに在るこの二枚は、彼が誰のためでもなく、自分自身のために描いた、本当の作品なんだ」
安岡は、リドリーの自画像を指差した。
「この鉛筆画は、油彩のための単なる習作ではないんだ。この『イディア』と、このリドリーの自画像。この二枚で一つの、対となる『組絵』なんだよ」
組絵──その言葉が、優一の頭を鈍器で殴られたかのように揺さぶった。
優一は愕然とした。
ようやく本物のイディアに再会できた。
その眼差しを、今度こそ独り占めできると思っていたのに。
しかし、その眼差しは、決して自分に向けられるもではなかった。
リドリー・ライト、ただ一人に向けられたものだったのだ。
だからか。
このイディアの瞳には、単なる強さだけではない、狂おしいほどの優しさと、胸が締め付けられるような切なさが含まれている。
それは、ドラッグに溺れ、破滅へと向かっている、愛する人との別れを予感した眼差しだったからだ。
「この二枚は…」
浅野が静かに語り始めた。
「ヒデユキが亡くなった後、ご両親がニューヨークのアトリエを引き払って、彼の絵を日本に持ち帰った。その中に、リドリーから預かっていたこの二枚の絵も混ざっていたんだ。リドリー本人に返却しようにも、その頃の彼はドラッグ禍の真っ只中で、連絡もままならなかった。おそらく、ヒデユキに絵を預けたことさえ覚えていなかっただろう」
リドリー・ライトの死によって、この二枚の絵は、本来の持ち主に返るあてを完全に失った。
そして、松永秀幸の絵を預かっている、この画廊の地下で静かに飾られることになったのだという。
優一は、再びイディアの絵に視線を戻した。
ずっと焦がれていた。
この力強い眼差しに。
この瞳に見つめられることに、焦がれていた。
しかし、その想いは、今、打ち砕かれた。
イディアの眼差しは、永遠にリドリー・ライトだけのものだ。
彼女の眼差しが、自分に向けられることは、決してない。
それは、あまりにも残酷な真実だった。
恋している、その相手の心が、決して自分のものではないと知った瞬間の絶望。
優一は、打ちのめされたような感情で、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
マーキームーンの静寂の中、イディアとリドリーは、これからも永遠に、互いだけを見つめ続けるのだろう。
誰にも邪魔されることなく、二人だけの世界で。

コメント

タイトルとURLをコピーしました