80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
見つめ合うふたり
ほの暗い照明が、壁に並ぶ絵画の輪郭を柔らかく浮かび上がらせる。
浅野画廊の地下にある絵画バー「マーキームーン」
その空間は、まるで時が止まったかのような錯覚を優一に与えた。
「本物のイディア」
目の前にある本物は、まったくの別物だった。
その存在感に、優一は息を呑んだ。
感動という陳腐な言葉では言い表せない、魂の根幹を揺さぶられるような衝撃。
優一はゆっくりと絵に近づき、イディアと正面から向き合った。
射るような、それでいて憂いをたたえ、愛情が溢れ出すような瞳。
その眼差しに見つめられていると、不思議な感覚に襲われた。
どこからか、優しく、しかし力強い旋律が聞こえてくる気がする。
それはイディア自身が奏でている音楽のようだった。
弦楽器のようでもあり、女性の歌声のようでもある、切なくも美しいメロディ。
その音にじっと耳を澄ましていると、ふと、別の旋律がすぐ近くから聞こえてくることに気づいた。
それは、より低く、静かで、それでいて確かな存在感を放つチェロのような音色。
二つの旋律は、反発することなく、むしろ互いを補い合うように、空間で溶け合っていく。
音の出どころはどこだ? 優一はゆっくりとあたりを見回した。
背後に、誰かの気配を感じる。
そっと振り返った優一の目に、一枚の絵が飛び込んできた。
そこにあったのは、鉛筆で描かれた一枚のデッサン。
イディアがかかる壁の反対側の壁にかけられている。
しかし、その力強いタッチと、描かれた人物から放たれるオーラは、優一の視線を釘付けにした。
このタッチは、リドリー・ライトそのものだ。
そして、そこに描かれているのは、紛れもなくリドリー自身の自画像だった。
優一は、何かに弾かれたように、思わず一歩、横に身をずらした。
その瞬間、優一は息を止めた。
彼が動いたことで生まれたその空間により、イディアとリドリー・ライトの自画像が、まっすぐに見つめ合う形になったのだ。
イディアの眼差しは、鑑賞者である優一ではなく、対面する壁のリドリーに向けられていた。
そして、リドリーの自画像もまた、静かにイディアを見つめ返していた。
「驚いたか」
静寂を破ったのは、安岡の声だった。
「優一がNHKの番組で見た『イディア』、正確には『チェルシーホテルのイディア』だけど、リドリーがニューヨークの画商に依頼されて描いた、いわば『商品』としての絵だ。もちろん、それも素晴らしい作品だがね。だが、ここに在るこの二枚は、彼が誰のためでもなく、自分自身のために描いた、本当の作品なんだ」
安岡は、リドリーの自画像を指差した。
「この鉛筆画は、油彩のための単なる習作ではないんだ。この『イディア』と、このリドリーの自画像。この二枚で一つの、対となる『組絵』なんだよ」
組絵──その言葉が、優一の頭を鈍器で殴られたかのように揺さぶった。
優一は愕然とした。
ようやく本物のイディアに再会できた。
その眼差しを、今度こそ独り占めできると思っていたのに。
しかし、その眼差しは、決して自分に向けられるもではなかった。
リドリー・ライト、ただ一人に向けられたものだったのだ。
だからか。
このイディアの瞳には、単なる強さだけではない、狂おしいほどの優しさと、胸が締め付けられるような切なさが含まれている。
それは、ドラッグに溺れ、破滅へと向かっている、愛する人との別れを予感した眼差しだったからだ。
「この二枚は…」
浅野が静かに語り始めた。
「ヒデユキが亡くなった後、ご両親がニューヨークのアトリエを引き払って、彼の絵を日本に持ち帰った。その中に、リドリーから預かっていたこの二枚の絵も混ざっていたんだ。リドリー本人に返却しようにも、その頃の彼はドラッグ禍の真っ只中で、連絡もままならなかった。おそらく、ヒデユキに絵を預けたことさえ覚えていなかっただろう」
リドリー・ライトの死によって、この二枚の絵は、本来の持ち主に返るあてを完全に失った。
そして、松永秀幸の絵を預かっている、この画廊の地下で静かに飾られることになったのだという。
優一は、再びイディアの絵に視線を戻した。
ずっと焦がれていた。
この力強い眼差しに。
この瞳に見つめられることに、焦がれていた。
しかし、その想いは、今、打ち砕かれた。
イディアの眼差しは、永遠にリドリー・ライトだけのものだ。
彼女の眼差しが、自分に向けられることは、決してない。
それは、あまりにも残酷な真実だった。
恋している、その相手の心が、決して自分のものではないと知った瞬間の絶望。
優一は、打ちのめされたような感情で、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
マーキームーンの静寂の中、イディアとリドリーは、これからも永遠に、互いだけを見つめ続けるのだろう。
誰にも邪魔されることなく、二人だけの世界で。
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