80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
瞳の中の自分
「マーキームーン」の濃密な闇から抜け出し、たどり着いたのは煌々と明かりが灯る深夜のファミリーレストランだった。
ドリンクバーの機械が時折立てる単調な音と、まばらな客のひそやかな話し声だけが、だだっ広い空間に響いている。
優一は、ほとんど中身の減っていないメロンソーダのグラスを前に、抜け殻のようだった。
目の奥にはまだ、見つめ合うイディアとリドリーの姿が焼き付いている。
あの完璧な円環。
自分が入る隙間のない、二人だけの世界。
これも失恋と言えるのか、あまりにも一方的な想いの終焉だった。
「……なんか、ごめんね」
沈黙を破ったのは、向かいに座るマキだった。
彼女はストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら、気遣わしげに優一の顔を覗き込んでいる。
「今日のあれ、優一くんにはキツかったでしょ」
「……」
「でもさ」とマキは続けた。
「私、今日、すごく大事なことに気づいた気がするんだ」
優一がゆっくりと顔を上げると、マキは真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「愛って、やっぱり一方通行じゃ成り立たないんだよ。片方からだけじゃ、絶対に」
その言葉は、優一の胸に静かに、だが鋭く突き刺さった。
「私の彼の話、してもいい?」
マキの問いに、優一は首を縦に振った。
「同じ美大の先輩だって言ったじゃない?」
マキは自嘲気味に笑った。
「才能はある人なんだ。でも、いっつもフラフラしてて。私と付き合ってるのに、平気で他の子と会ったりする。悪びれもせずにね。才能に惚れた弱みかな、なんて思ってたけど……」「いや、私、才能があるから、人に対して自慢みたいな気持ちがあるのかも」
マキは視線を落とし、テーブルの上の水滴を指でなぞった。
「よく言うじゃない? 良いパートナーっていうのは、同じ方向を向いて歩いていける相手だって。私もそう思ってた。でも、違うのかも。それって、ちゃんとお互いが見つめ合うことができて、初めての話なんじゃないかな」
マキの言葉が、今日のマーキームーンの光景と重なる。
イディアとリドリーは、まさに見つめ合っていた。
同じ方向どころか、互いの存在だけが世界のすべてであるかのように。
「あの二枚の絵を見て、わかったんだ。リドリーはイディアの瞳の中に自分を見て、イディアはリドリーの眼差しの中に自分を見てた。お互いの相手の中に、ちゃんと『愛されている自分』がいて、その自分を見つめることができて初めて、それは『愛』になるのかもしれない」
マキは顔を上げた。その瞳は少し潤んでいるように見えた。
「私、彼の瞳の中に、自分を見つけたことがないや。彼が見てるのは、いつも別の何か。たぶん、彼自身だけ」
優一は、はっとした。
自分も同じだったのではないか。
イディアの瞳に焦がれ、その眼差しを欲しがっていた。
だが、その瞳の中に自分を映そうなんて、考えたこともなかった。
ただ一方的に、その美しさと力強いやさしさを享受しようとしていただけだ。
それは愛ではなく、憧れであり、独りよがりな渇望だったのかもしれない。
マキもまた、自分と同じように、一方通行の想いに苦しんでいた。
形は違えど、その痛みはよくわかる。
自分の悲しみに酔っていた心が、マキの言葉によって、少しずつ現実の地平へと引き戻されていくのを感じた。
傷ついているのは、自分だけではなかった。
「……そっか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「僕、イディアに恋してたけど……イディアのことは、何も見てなかったのかもな」
その言葉を口にした途端、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
マキは、ふっと息を吐くと、もたれていた背もたれから体を起こした。
その表情は、先ほどまでの憂いを帯びたものから、何かを決意したような、凛としたものに変わっていた。
「私、自分がどうしたいのか、少しだけ見えてきた気がする」
そう言って微笑んだマキの顔は、とても綺麗だと思った。
窓の外は、真夜中の暗闇に街のネオンが瞬いている。
でも、この夜もいずれ朝になる。
永遠に続くかと思われた絶望の夜にも、終わりは来る。
優一の失恋の痛みはまだ生々しく胸に残っている。
だが、隣で同じように痛みと向き合い、それでも前を向こうとするマキの存在が、暗闇の中に射し込んだ、マキが今、掴んだ何か、優一もそれが欲しいと思った。
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