1980年代のおわり、北陸の夜明け。画一化された価値観と閉塞感が漂う中、揺れ動き、彷徨う自我を抱えた二人の高校生男子は、早朝の校舎に侵入する。その目的は?
陽射しの中の目的
部屋は薄暗く、閉じ込められた画材特有の、ツンとした刺激的な匂いが鼻腔をくすぐった。
それは、油絵の具の匂いと、絵を描くための溶剤の匂い、そして古びた石膏像の匂いが混じり合ったものだった。部屋の真ん中に置かれた制作机には、大きな画用紙が広げられたまま、放置され残されていた。
前日の制作の名残だろうか、絵の具や筆が乱雑に散らかり、水入れには、まだ澄んだ水が半分ほど残っている。
画用紙には、原色の赤や黄色、青、緑が、感情のままに飛び散るように、力強く、そして何重にも塗り重ねられている。
それは、描き手の内なる叫びが、そのままキャンバスにぶつけられたかのようだった。
暗がりの中でも、その色彩は鮮やかに、力強い存在感を放っていた。
ふたりは、それらを見る一瞥した後、美術室の奥に繋がる美術準備室へと、迷いなく、素早く向かった。 「だれの絵なの?」
準備室に入ってすぐの、物置場所にあった丸筒を掴みながら、純也が尋ねた。
その声には、その絵に対する純粋な好奇心が混じっていた。
「たぶん安岡だよ。生徒じゃない」
優一が、すぐに答えた。
その口調には、自分もその絵が気になったという共感の響きがあった。
「すごい絵だな……狂ってるな」
純也は、丸筒を抱えながら、改めて絵の方を振り返り、呟いた。
その声には、称賛とどこか畏怖の念が入り混じっていた。
それは、いつも持て余している自分の内にある異物感を目に見える形で表現したような絵に、どこか共鳴しているようだった。
「そうだね。サイケな絵だね」
優一もまた、その絵の持つ異様なまでの迫力に、心を揺さぶられているようだった。
彼らは、その絵が放つ狂気にも似たエネルギーを、自分たちの行動と重ね合わせているのかもしれない。ひとしれず校舎に忍び込む彼らの行為の、その理由も一種の狂気なのかもしれないから。
目当ての筒を持って美術室の引き戸を開けたら、廊下の窓のオレンジの光線は強くなっていた。
朝の空気が満ちている。
澄みわたった空が窓の外に広がり、気持ちも明るくなる。
純也は、筒を脇に挟んで、小声でいった。
「さぁ、校長室へいこう」朝日に照らされた顔は、生きいきしていて、恐れの陰など全くない。優一も自分の怖じけずいた気持ちが、なくなっていることに気がついて微笑んだ。来たときと同じようにふたりは、這って廊下を戻っていった。
あたりは急速に明るくなっていったが、静けさは変わらない。
宿直室の前を過ぎるとき、少し動きがぎこちなくなったが廊下一番奥の校長室に着いた。
優一は、軽く腕を曲げて腕時計をみて言った。「予定どうり、6時ジャスト」
純也はポケットから、鍵を取り出して校長室の鍵穴にさそうとした瞬間、近くで、ガラガラと引き戸が開く音が響いた。
ふたりは、とっさに廊下の突き当たりの暗がりに身を屈めた。
廊下の向こうの宿直室から、人が出てきた。
そっと顔をあげて見てみると、英語教師のあいちゃんだった。
寝間着代わりだろうか、グレーのジャージの上下を着て、寝ぼけたようによろよろと正面玄関の方へ歩いていった。
「調べたとおり、当番はあいちゃんだったな」と純也が言った。
「30秒前だったら、終ってたよ」
「どうする、どうする」
すぐに、あいちゃんは戻ってきた。
手に新聞を持っている。
また宿直室に入っていった。
しばらく、ふたりは息を殺して、耳をそばだてた。
宿直室からは、かすかにテレビのニュースの音が聞こえてくる。
「そりゃ、起きる時間だよな」と純也が言った。
「2分過ぎた、どうしよう」
優一が不安そうな声で言った。
「見回りにはこないさ、さ、やろう」
息を殺して、純也は小さな鍵を、校長室の重々しいドアの鍵穴にそっと差し込んだ。
心臓の音が、やけに大きく静まり返った廊下に響く。
早く開けなければ。その考えだけが、純也の心を支配していた。
力を込めて鍵を回そうとするが、まるで意思を持っているかのように、びくともしない。
「あれ、おかしいな。なんでだ?」
音をたてないようにすればするほど、ガチャガチャと金属音が耳につくだけで、鍵は一向に回る気配を見せない。
純也の額に、じわりと冷たい汗が浮かぶ。
え、まずい、時間がかかりすぎだ。
誰かに見つかったら、終わる。
「ちょっと貸してみて」
隣で静かに様子をうかがっていた優一が、落ち着いた声で言った。
優一は純也の手から鍵を受け取ると、一度ゆっくりと鍵先を指に挟んで、念じるように押した。
そして、まるで初めて鍵を扱うかのように、慎重にもう一度鍵穴に差し込む。
カチリ、と小さな音がした。
優一はほんの少しの間を置いてから、ゆっくりと、そして滑らかに鍵を回した。
今度は、まるで最初からそうなることが決まっていたかのように、嘘みたいにスムーズに鍵が回った。ガチャリ、とロックが外れる音がした。
「物事には何にだって『間』ってもんがあるんだよ」
優一は少し得意げに静かな声で言った。
「へえ、そんなもんかね」
生返事する純也は感心するよりも、早く中に入りたいとの気持ちでいっぱいだった。
ドアを開けた瞬間、もわりと淀んだ空気が二人を迎えた。
なんだろう。
古びた洋服ダンスにしまい込まれた服を守る、あの鼻につく防虫剤のような、嫌な匂い。
先月、優一が校長に呼び出されてこの部屋に入ったときより、臭いがひどく感じる。
優一はすぐさま部屋に入ると、音を立てないようにそっと扉を閉め、内側から鍵をかけた。廊下から差し込んでいた夜明け前の淡い光は、扉の曇りガラスに遮られて、室内にはほんのわずかしか届かない。
部屋の中は、純也の思った通りの場所だった。
壁一面を埋め尽くす背の高い本棚には、誰も読まないであろう分厚い書籍がずらりと並んでいる。
ガラスケースの中には、過去の栄光を物語る優勝カップや盾が、ほこりをかぶって鈍い光を放っていた。
「うわ、初めて入ったけど、想像してたそのまんまだな。面白くもなんともない」
純也は、まるで部屋を検分するように、きょろきょろと辺りを見渡しながらつまらなそうに呟いた。
「本番はここから。奥に応接室がある。さ、行こう」
優一が低い声で促した。
部屋の奥には、大きくて黒々とした執務机が鎮座している。
その机の向こう側の壁に、もう一つドアがあった。
あのドアの先に、ふたりの目的がある。
優一がドアノブに手をかけ、静かに開ける。
そこは、何の変哲もない、殺風景な応接室だった。
部屋の真ん中に置かれたガラスのテーブルを挟んで、ベージュ色の一人掛けの椅子が二脚と、同じ色の三人掛けのソファが一つ。
どこかの会社の待合室から持ってきたような、ありきたりな応接セットが薄暗がりの中に浮かび上がっている。
「ひどい部屋だな、センスのかけらもない」
純也は苦笑しながら、壁に掛けられた一つの額縁を見上げた。透明な朝のやさしい陽射しがゆらゆらと、そこだけ照らしていて、部屋の雰囲気とは不釣り合いな、絵が掛けられていた。
「これか…」
純也の声のトーンが、急に真剣なものに変わる。
その額縁の中に、彼らの目的があった。
「よし、早く彼女をここから救い出してやらなきゃ」
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