1980年代のおわり、北陸の夜明け。画一化された価値観と閉塞感が漂う中、揺れ動き、彷徨う自我を抱えた二人の高校生男子は、早朝の校舎に侵入する。目的は絵の中の女性だった。
ミッション完了?
手紙をポストに投函してから、優一の心は落ち着かなかった。
マキさんは読んでくれただろうか。自分の気持ちをどう思うだろうか。
そんな気持ちで落ち着かないまま一週間が過ぎた。
そして、土曜日の夜がやってきた。部屋の明かりもつけず、ベッドに寝転がって天井を眺めていると、「優一、電話よー」と階下から母親の声がした。
優一は急いで階段を下りて、リビングの電話を取った。
なんとなく予想していた声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「優一くん、久しぶり。手紙、読んだよ。ありがとうね」
マキさんの声だった。
いつもよりテンションが高い、楽しげな声色だ。
その声の向こう側から、街のざわめきが波のように聞こえてくる。
車のクラクション、大勢の人の笑い声、そして遠くで鳴っている音楽。
優一の静かな部屋とはまるで違う、賑やかで、きらびやかな世界の音がした。
「すごい音だね。どこかに出かけてるの?」
「うん、いまから友達のバンドをみるのよ。ライブハウスの前」
手紙の返事を書こうと思ったんだけど、すぐには出せそうになかったから、ごめんね、電話で。
公衆電話からかけているようで、マキさんは少し早口だった。
十円玉が落ちるカチャンという音が、時々会話に混じり込む。
「それにしても、優一くん、わたしのことがずっと好きだと思ってたのになー。そっか、今はイディアがいるんだね」
マキさんは楽しそうにからかう口調でそう言って、くすくすと笑った。
その屈託のない笑い声は、優一を少しだけ安心させるようで、同時にどうしようもなく寂しい気持ちにもさせた。
「お盆休みには実家に帰るから、その時にでも会おうね」
最後にそんな月並みな約束を交わして、電話は切れた。
ツー、ツー、という無機質な音が、やけに大きく響く。
優一はしばらく受話器を握りしめたまま、ぼーっとした。
けれど、真夏の太陽が照る八月になっても、マキさんは帰ってこなかった。
優一と純也は、校長室に忍び込んでいた。
目的の絵は、応接セットのソファの上に飾られていた。
A3サイズほどのその絵を、純也がしなやかな身のこなしでソファに飛び乗り、ヒョイと壁から外した。
ずしりとした重みを想像していたのか、純也は「おっと」と少しバランスを崩す。
額は、拍子抜けするほど簡単なつくりだった。きっと無印良品かどこかで売っている、ありふれた既製品だろう。
これなら簡単に開けられる。優一は、万が一のためにとナップサックに詰め込んできたドライバーやペンチのことを思い出し、なんだかおかしくなった。準備万端で来た自分が、少しだけ馬鹿みたいに思えた。
「なんだよ。持ってくる時、やけに重かったのにな」純也が不満そうに呟く。
「さあさあ、ここからが本番だよ」優一は焦る気持ちを抑えながら言った。
優一は額を床に置くと、慣れた手つきで裏板を外し、中から絵を抜き取った。
そして、純也はその絵を優一から受け取ると、まるで古い新聞紙でも扱うかのように、無作法に丸めようとしたのだ。
思わず、優一は腹の底から声を張り上げていた。
「おい、おい!やめろよ!!」
普段、声など荒げない優一が発した、自分でも驚くほどの大声。
純也はびっくりしたように肩を揺らし、目を丸くして優一を見た。
「しっ!静かにしろよ、あいちゃんが来たらどうするんだよ」
純也は人差し指を口に当てて優一を制す。
「あ……ごめん。その絵、こっちに貸して」
優一は、まるで生まれたばかりの子猫を受け取るかのように、そっと両手を差し出した。
純也から絵を受け取ると、そっとソファのうえに置いた。
純也は、そんな優一の様子を、どこか感心するような、それでいて少し驚きが混じったような複雑な顔で眺めていたが、すぐに気を取り直したように言った。
「わかったよ。じゃあ、早く差し替えようぜ」
純也は、美術準備室から持ち出してきた紙製の筒を開けると、中から優一が描いた模写を取り出した。
さっきの本物に対する態度とは打って変わって、今度は国宝でも扱うかのような、うやうやしい手つきだった。
優一は思わずクスッと笑ってしまった。
「それ、僕の絵だから、そんなに丁寧に扱わなくてもいいんだよ」
すると純也は、わざと真面目くさった、顔を作って言った。
「絵画に貴賤なし、だ」
二人は、ソファに並べた二枚の絵を見比べた。
本物の絵が放つ、独特のオーラ。
それに対して、優一の絵はあまりにも薄っぺらく見えた。
血の気がさっと引いていくのを優一は感じた。
「ぜんぜん、ダメだ……これじゃ、すぐにバレてしまう」 優一の声が震える。
「見てみろよ、この線の強さも重なりも、勢いがぜんぜん違うじゃないか」
「やめよう、純也。これは無理だよ、絶対に無理」
優一は軽いパニック状態に陥ったようになった。
だが、パニックになる優一とは対照的に、純也はどこまでも落ち着いていた。
彼は二枚の絵を冷静に見比べると、こともなげに言った。
「俺には、その違いがまったくわからないけどな」
「大きさもぴったり合ってるし、色の濃さもそっくり」
「まあ、紙の質感が違うのは確かだな。本物の方が、ちょっと古びて黄色くなってる感じがする。でも、それも額に入れて壁に飾っちまえば、絶対にわかりっこないって」
純也は優一の肩をポンと叩いた。
「だいたいな、校長室に出入りするような連中に、絵の良し悪しなんてわかる奴がいると思うか?ただの飾りなんだよ」
まだ納得できてない顔をしている優一を尻目に、純也は手際よく作業を始めた。
本物の絵をトレーシングペーパーでそっと包み、あのうやうやしい手つきで空になった筒に収める。
そして、筒から出した優一の贋作を、元の額に丁寧にはめ込み、壁にかけ直した。
二人は、壁にかかった優一の絵を並んで見上げた。
純也は満足そうに腕を組み、「ほらな、ぜんぜん大丈夫だろ」と囁いた。
優一には何も言えなかった。ただ、心臓が早鐘を打つのを感じながら、不安そうな顔で絵を見つめることしかできなかった。
「よし、ミッション完了だな」
純也がそう言って、得意げに笑った、まさにその瞬間だった。
ガチャガチャッ!
冷たい金属音が、静まり返った校長室に響き渡った。
純也と優一は顔を見合わせた。
すぐに誰かが校長室の扉に鍵を差し込む音だとわかった。
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