【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(6)逃走

80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、計画は成功するかに見えたが…

逃走

シーンと静まり返った応接室。
純也と優一は、その部屋の中心で、まるで氷の彫刻にでもなったかのように身を固くしていた。
どちらからともなく視線が絡み合い、互いの瞳に映る恐怖を読み取った。
その静寂を切り裂いたのは、隣の執務室から響いてきた、無機質な金属音だった。
ガチャ、ガチャガチャ。
誰かが、鍵穴に鍵を差し込み、懸命に回そうとしている。
心臓が喉までせり上がってくるような感覚に、純也は息を飲んだ。
「あれ、開かないな。これ、違う鍵なのか……」
ドアの向こう側から聞こえてきたのは、低く、少し困ったような男の独り言だった。
宿直の「あいちゃん」ではない誰かだ。
まずい。
その言葉が純也の頭の中を稲妻のように駆け巡った。
彼は音を立てないよう、つま先で床を蹴ると、ほとんど無意識に背負っていたナップサックの肩紐を握りしめた。
部屋にある唯一の逃げ道、狭い裏庭に面した窓へと、猫のようにしなやかな動きで駆け寄る。
「逃げるぞ、優一!」
ささやくような、しかし切羽詰まったその声で、思考が停止していた優一もハッと我に返った。
目の前が真っ白になり、手足から力が抜けていくような感覚に襲われていたが、純也の声が彼を現実へと引き戻した。
震える手で、床に置いていた自分のナップサックと、今日の最大の目的である絵を丸めて入れた筒を、わし掴みにする。
純也はすでに窓に取り付き、鍵に手をかけていた。
だが、その窓は長い間、開けられたことがなかったのだろう。
鍵の根本は赤黒い錆に覆われ、まるで溶接されたかのようにびくともしない。
純也が渾身の力でノブをひねろうとするが、指が滑るだけで、軋む音ひとつ立てなかった。
その間に隣の部屋から聞こえていた鍵をいじる音は、ぱったりと止んでいた。
静けさが、かえって二人の恐怖を増幅させる。
あきらめたのか?いや、別の方法を探しているに違いない。
優一が自分のナップサックのポケットに手を突っ込み、何かを探り当てた。
取り出したのは、額縁を開けるために持ってきていた、無骨なペンチだった。
彼は純也を押し退けると、錆びついた鍵のノブをペンチの先でがっしりと掴んだ。
そして、ゆっくりと、しかし確実に力を込めていく。
ギッ、と錆が悲鳴を上げるような鈍い音がして、固く閉ざされていた鍵が動いた。
「どんなことにも、無駄なことはないんだって。昔、おばあちゃんが言ってた」
と優一はペンチを見せながら、はふっと息を吐きながら笑った。
緊張がほんの少しだけ緩んだ、乾いた笑みだった。
だが、その瞬間、二人の楽観した空気を破るように、再び、校長室のドアに鍵が差し込まれる音がした。
「スペアキーだけど、開くかな」
先ほどと同じ男の独り言が、すぐ耳元で聞こえたような気がした。
「優一、笑ってる場合じゃないぞ!行くぞ!」
純也は低い声だが力強く言うと、ためらわずに自分のナップサックと絵の入った筒を窓の外へ放り投げた。
そして、窓枠に足をかける。
カチリ、と背後で錠が開く音がした。
二人はそれ同時に、朝の冷たい空気が満ちる小さな庭へと飛び降りた。
砂利の上に着地し、足がもつれるのも構わず、放り出した荷物を拾い上げると、脱兎のごとく走り出した。
植え込みの葉が頬を打ち、息は切れ、心臓は張り裂けそうだった。
学校の裏門を転がるように抜け、目の前にあった小さな児童公園の暗がりに駆け込む。
そこは、計画が成功した後に向かう予定だった場所だ。
「はぁ……っ、あー、危なかった……!」
純也は、興奮で赤く火照った顔のまま、公園の噴水式水飲み場にかがみ込み、蛇口から出る水をゴクゴクと喉に流し込んだ。
生ぬるい水が、乾ききった喉を潤していく。
「助かった」
彼は安堵の息をつきながら、座り込んで隣に立つ相棒を見上げた。
優一は青ざめた顔でそこに立ち尽くしていた。
「おい、おい。何だよその顔。成功したじゃないか。まあ、危なかったけどさ」
純也が楽観的な声をかけると、優一は力なく首を振り、震える唇でこう言った。
「窓……閉めてこなかった」 

コメント

タイトルとURLをコピーしました