80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
安岡のこと
目の前にいる美術顧問の安岡は、30代後半くらいだろうか。
年の頃なら、優一の両親とそう変わらない。
ボサボサの長髪を後ろで無造使に束ね、着ているTシャツには絵の具の染みがいくつもついていた。
美術教師というだけあって、他の教師たちとは明らかに違う空気をまとっており、部活動のやり方にも細かな指図をすることは一切なかった。いつもやる気がなさそうな、つまらなそうにみえる。
以前、安岡のそのような態度でいる理由を垣間見る出来事があった。
それは1年前、優一が1年生の夏休みが終わって間もない、まだ蒸し暑さが残る日の放課後だった。
ほとんどの生徒が文化祭の準備で浮き足立つ中、優一は一人、黙々と美術室でデッサンを続けていた。
取り組んでいたのは、夏休みの課題として出された文化祭のポスターだった。
まだ提出していなかった優一はひとり、制作に励んでいたのだった。
他の生徒が提出した、いかにも「青春」の明るい色彩の楽しげな文化祭のポスターが壁に並ぶ中、優一が描いていたのは、古びた錆びついた蛇口から、ぽたりぽたりと落ちる一滴の水を捉えた鉛筆画だった。
「よう、優一」
不意に背後から声をかけられ、優一の肩が小さく跳ねた。
振り返ると、いつものように気の抜けた表情の安岡が、マグカップを片手に立っていた。
「集中してるとこ、悪いな。ちょっと見せてくれよ」
安岡は優一の返事を待たずに、イーゼルの横に回り込み、その絵をじっと覗き込んだ。
優一は居心地の悪さを感じ、無意識に鉛筆を握る手に力が入る。
この先生は、いつもこうして突然、人の心の中に土足で踏み込んでくるような気がして、苦手だった。
「蛇口か。面白いもん描くな、お前は」
安岡は呟いた。
「この、水滴が落ちる寸前の、表面張力で盛り上がってる感じ、よく見てるな。光の反射の捉え方もいい。ただの蛇口なのに、なんだか時間が止まって見える。お前、いい目を持ってるよ」
それは、安岡の心からの賞賛だった。
彼は優一の絵の中に、他の生徒にはない、物事の本質を見抜くような、静かで鋭い感性を見出していた。
それは、かつて自分が持っていて、そして失ってしまったものに似ていた。
「……ありがとうございます」
優一は、ぼそりと礼を言った。褒められて嬉しいはずなのに、素直に受け取れない自分がいた。
安岡の言葉が、自分の内側を見透かされているようで、落ち着かなかったのだ。
「文化祭のポスターとか、そういうお題も一応あったんだけどな。で、優一の文化祭は、なんで蛇口なの」
おどけた口調で安岡は続けた。
その軽い響きが、逆に優一を強張らせる。
「……特に意味はないです」
とっさにそう答えた。
自分の内側を、この人に見せたくなかった。
「ふうん、意味はないか」
「まあ、みんな文化祭のポスターというと、いかにも楽しそうな絵を描いてくるんだけどさ。そういう『元気で明るい』のが、どうも苦手なんだろ」
「………」
優一は図星をさされ、何も言えなかった。
「錆びついた蛇口、お前にとっちゃ、こっちの方がリアルなんだろうな」
安岡は優一の心の壁が高くなったのを感じ取って、それ以上絵のことに触れず、話題を変えた。
彼は自分のマグカップを優一に見せる。
「インスタントコーヒーだけど、飲むか?」
「いえ、大丈夫です」
優一は、やんわりと断った。
安岡は「そうか」とだけ言って、マグカップに口をつけた。
しばらく沈黙が続いた後、安岡がぽつりと言った。
「昔な、友達がいたんだ。すげえ絵を描くやつでさ」
優一はデッサンに集中するふりをしながら、その言葉に耳を傾けていた。
「俺なんかより、ずっと才能があった。同じような仲間3人で美大やめて、ニューヨークに行ったんだ。絵の修業だって言ってな。怖いもんなんて何もないと思ってな」
安岡の声には、いつものような軽さはなかった。
遠い過去を懐かしむような、それでいて、ひどく寂しげな響きがあった。
「でも、あいつはダメだった。向こうで、描けなくなっちまったんだ。渡米してすぐに新人賞みたいなのを獲ってさ、前途洋々に見えたんだだけど、画商とか取り巻きみたいなのが、絵にあーだこーだ注文つけたり要求したり、あいつ、やさしい男だったから完全に自分を見失ったんだよ」
「そのとき、俺も自分のことだけで精一杯で、そんなあいつの苦しみに気づけなくて、見殺しにしたようもんなんだ、嫉妬してたのもあったのかもな」
彼の声は、まるで懺悔のように聞こえた。
それは、彼が心の奥底にずっとしまい込んでいる、深い傷口だった。
生きることを、描くことを、どこかで諦めてしまったような男の告白だった。
「優一」
安岡が、静かに優一の名前を呼んだ。
「描きたいものを、描きたいように描け。周りのことなんて気にするな」
彼は、優一の中に、かつての親友の面影と、自分が失った才能の輝きを見ていた。
だからこそ、この繊細で、危うさを秘めた少年が、自分や友人のような道を辿ってしまうことをおそれているようだった。
優一は、何も答えられなかった。
安岡の重い話に、どう反応していいか分からず、黙ったままだった。
ただ、その日から、安岡を見る目が少し変わった。
今まで美術教師なんて、ただの売れない画家くずれだと馬鹿にしていたが、やめた。
馴れ馴れしくて、少し苦手な先生の、その奥に隠された、癒えない悲しみを、おぼろげに感じ取ったからだった。
それでも、優一が安岡に完全に心を開くことはなかった。
そして、以後に同じような話をすることもなかった。
安岡の優しさが、逆に二人を隔てる、見えない壁になっていた。
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