【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(9)夕方の美術準備室

80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…

夕方の美術準備室

「いやあ、昨夜は絵を描いていたら、つい夢中になっちゃってさ。家に帰るのが面倒になって、この準備室に泊まったんだよ」

安岡は、青と緑の派手なツートンカラーの寝袋を、面倒くさそうに、しかし手慣れた様子で丸めていく。
「本当は無断で泊まったらいけないんだよ。証拠を片付けておかないと」
その言葉は、まるで何でもない世間話のように軽やかだったが、優一の耳には雷鳴のように響いた。

昨夜、ここに、泊まった?

その単語が頭の中で何度も反響する。
全身の血が逆流し、心臓を氷の手でわし掴みにされたような衝撃が走った。
足元がぐらりと揺らぎ、立っているのがやっとだった。
今朝、自分たちが息を殺してこの部屋に忍び込んだ時、この人は、このすぐ近くで眠っていたというのか。

「だ、段ボールの奥で……寝てたんですか」

ようやく喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれて、震えていた。

「そうなんだよ。一度描き始めると、もう止まらなくてねえ」
安岡はあっけらかんと続ける。 その無頓着な様子が、優一の恐怖をさらに煽った。

「描いてる最中は『これは傑作だ!』なんて本気で思ってるんだけど、朝起きてから冷静に見ると、まあひどいものだよ。典型的な『深夜のラブレター効果』だな。まともな精神状態じゃないんだよ、夜中ってのは。はっはっはっ!」

安岡は大きな口を開け、心の底からおかしそうに笑った。 その屈託のない笑い声が、準備室の埃っぽい空気に響き渡る。

「だから優一、ラブレターは深夜に書くなよ!ははは!」
優一は、その無邪気な笑顔を見つめながら、今朝、薄暗い中で目にしたあのサイケデリックな絵を思い出していた。
目に痛いほどの原色がぶつかり合い、ぐにゃぐにゃと歪んだ線で描かれた、悪い夢のような絵。
あの時、安岡先生は、この部屋で、この寝袋にくるまって眠っていた……。

まさか。
優一は、探るように安岡の顔をじっと見つめた。
この人は、本当に何も知らないのだろうか。
それとも、すべてを知った上で、わざと白々しく振る舞っているのか。
今朝、校長室のドアをガチャガチャやっていたのは、この人だったのではないか。
そんな疑念が、次々と頭をもたげる。
しかし、寝癖のついた髪も、人の良さそうな目元のしわも、すべてがただの「だらしのない美術教師」の姿をしていて、その表情の奥から本心をつかみ取ることはできなかった。

棚に戻したばかりの絵の入った筒が、まるで時限爆弾のように思えた。
今ここで中身を見られたら、すべてが終わる。
そう思うのに、再びそれを手に取る勇気はなかった。
そんなことをすれば、怪しいと自白しているようなものだ。
指先が痺れ、筒に近づくことさえできない。

「……ぼ、僕、部活の準備、します」

それだけ言うのが精一杯だった。
上ずった声が、自分の耳にも奇妙に響く。
優一は安岡に背を向け、逃げるようにして準備室を出た。

扉を閉めた瞬間、やっと息ができるような気持ちになったが、すぐにまた分厚い不安の雲が心を覆い尽くした。
焦りと恐怖で、息が苦しくなる。
何をどうすればいいのか、まったく考えがまとまらない。
彼はただ暗く怯えた気持ちのまま、自分のイーゼルの前に座り、意味もなく時間を過ごした。

目の前にある描きかけの絵にも、まったく集中できなかった。
手が自分のものじゃないように、思うように線が引けない。
パレットの上で混ぜる絵の具は、なぜか濁った色にしか見えなかった。
美術室の窓から差し込む光が、オレンジ色から紫色へ、そしてゆっくりと夕闇に溶けていく。
その光の変化が、自分の心が沈んでいく様子と重なって見えた。

筆を置いたとき、心の中で呟いた。
純也の言うとおり、一応は「普段通り」を演じきった、はずだ。
でも、それは砂で作った城のようにもろかった。

早く純也の家に行こう。
今日のこと、そして何より、安岡のことを話さなければ。
それだけが、今の優一にとって唯一の対処方法だった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました