80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
もし僕がいい奴だったら
「やっぱり、選択肢は他になかった」
優一はいままでの一連の出来事を思い出して、思い定めた。自分にはイディアを盗み出す以外、道はなかった…と。
生ぬるい夜気が、開け放った窓から忍び込んでくる。
「待たせたな」
そんな空間に、間の抜けた明るい声が響いた。
台所から純也が戻ってきた。
ピザやソーセージ、唐揚げが、大皿へ無造作に盛り付けられていた。
ガタン、と遠慮のない音を立てて、純也は皿を直接フローリングの床に置くと、優一の隣にどかりと腰を下ろす。
「おー、サンキュ」
優一は感謝を口にしながら、ぬるくなりかけた缶ビールをあおった。
純也も自分の分を手に取り、プルタブを引き上げる。
カシュッ、という小気味よい破裂音が、六畳間に響いた。
純也がじっと優一の顔を覗き込んできた。
その目は、探るようだった。
「もう、くよくよ悩んでないな」
優一は一瞬言葉に詰まる。
「……まあな」
優一は、自分に言い聞かせるように、そして純也を安心させるように言葉を続けた。
「純也のいうとおり、何か起こったらその時考えることにするよ」
その答えに満足したのか、純也は「おう」と短く応え、バシンと力強く優一の肩を叩いた。
「そうだな。とりあえずさ、あの子と早く再会しろよ。会えば、やって良かったと思うからさ」
イディアに会えば、この選択がよかったと思うはず。
純也の言葉が、優一の心の中で反響する。
そうだ、きっとそうなのだろう。
頭ではわかっている、よーくわかってる。
そんな優一のわずかな葛藤を見透かしたのか、純也は皿の上のソーセージをひょいと口に放り込み、わざとらしく大きなため息をついてみせた。
「お前には絵があるからいいよな」
突然、投げかけられた言葉に、優一は純也の顔を見つめ返した。
「本気でやってんだろ。そういうの俺にはないからさ」
その目は、少し寂しそうでありながら、友人への純粋なリスペクトが滲んでいた。
だからこそ、優一は胸がちくりと痛むのを感じた。
「いや、そんな真面目にやってないよ」
「そんなことないだろ。賞とかも取ってたよな」
「いや、それ、けっこう前だよ……」
優一は反射的に否定した。
彼自身、このまま絵を描き続けて美大に行くという未来を、真剣に考えていなかった。
それは、才能への確信のなさか、あるいは単なる臆病さか。
「まだ何かに決めることはできないんだよ。本当にやりたいことが、まだわからない」
自嘲気味に笑いながら、優一は本音を漏らした。
「やりたくないことは、よーくわかるんだけどな、数学とか」
「絵をやって、生きていけるのは、ひと握りの人間だけだよ、僕にはそんな自信ないよ」
「そうなのか。でも、なんでもやってみないとわからないぞ」
純也はそう言うと、ぐいっとビールを飲み干した。
「なんでもやってみないと、な」
「やってみてもダメなこと、あるけど」
純也は部屋の隅にある埃をかぶったギターをチラリと見た。
その気配を察した優一が聞く。
「純也がいま、1番気になっていることはなんなの?」
「うぅ…む」
「ないかなぁ」
酔いで赤くなった顔。
純也の半分閉じたその目が、何か遠くを見ているように優一には思えた。
優一の頭もアルコールで霞んでおり、深く考えるには至らなかった。
「あ、BGM忘れてた」
純也は気を取り直すかのようにつぶやくと、よろよろと酔っておぼつかない足取りで立ち上がり、壁際の棚に向かった。
レコードが詰まった箱の中から、慣れた手つきで一枚を引っぱり出す。
「今の気分は、これかな」
そう言って優一に向けられたジャケットには、牧草地に佇む乳牛の、気の抜けた姿が画面いっぱいに写っていた。
ピンク・フロイドの『原子心母』。
純也はレコードクリーナーで盤面の埃を申し訳程度にサッと撫でて、ミニコンポのプレーヤーにそっと乗せる。
アームがゆっくりと下り、スピーカーからプツ、という小さなノイズに続いて、音が流れ出した。
軽やかで物悲しい、アコギのアルペジオ。
そして、穏やかで優しい歌声が部屋を満たした。
♪ If I were a swan, I’d be gone… ♪ (もし僕が白鳥だったなら、もう飛び去っていただろう)
「おいっ、B面かよっ!」
思わず、飲みかけたビールを吹き出しそうになるのを、優一は必死でこらえた。
純也は振り向きもせず、至極真面目な声で言う。
「そう、こんな気分なんだよ」
「ギャグかよ!」
優一は、もう笑いが止まらず、ムセながらフローリングに突っ伏した。
『原子心母』は、プログレッシブ・ロック史に輝く名盤だ。
その評価を決定づけているのは、なんといってもA面を丸ごと使った、23分にも及ぶ表題曲の「原子心母」。
オーケストラとロックバンドが融合した、壮大でドラマティックなインストゥルメンタル。
ジャケットを見せられた瞬間、優一の頭の中では、あの重厚な管楽器のファンファーレが鳴り響いていた。
それなのに、純也がかけたのは、B面1曲に収録された素朴でフォーキーな小品『IF』だったのだ。
そのあまりの意表の突かれ方に、優一の腹筋は限界だった。
数時間前まで心を支配していた深刻な気分は、純也の選曲一つで完全に吹き飛んでしまっていた。
♪ If I were a train, I’d be late. And if I were a good man, I’d talk with you more often than I do. ♪
(もし僕が汽車だったなら、きっと遅れてしまうだろう。そして、もし僕がいい奴だったら、もっとたくさん、君と話し合うことができるのにな)
内省的な歌詞とは裏腹に、優一の心はどこまでも晴れ渡っていく。
ああ、そうか。純也といると、このウジウジと悩む嫌いな自分が消えてなくなる。
だから僕は、こいつと一緒にいるのが好きなんだ。
優一がそんなことを考えている隣で、純也は目を閉じ、穏やかなリズムに合わせて体を静かに揺らしていた。
その横顔に浮かぶのは、自己嫌悪の色。
純也には優一に、なかなか話せないでいることがある。
それが罪悪感となって、純也は胸に何かがつかえているような気分だった、そのことを笑い続ける優一は知る由もなかった。
スピーカーからは、優しいギターの音が流れ続けていた。
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