80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
由香子の告白
昨日、名もなき恋が終わった。
そう思うと、不思議なほど心が軽くなった。
ずっと背負っていた重荷をようやく下ろしたかのように、優一の世界はむしろ色彩を取り戻し、大きく開かれた気さえしていた。
放課後の喧騒が、昨日までは耳障りなだけだったのに、今は一つ一つの音が意味を持つ生き生きと肌に馴染む。
クラスメイトとの馬鹿話に、心からの笑いを返しながら廊下を歩いていた、その時だった。
ふわりと、清潔なシャンプーの香りが鼻先をかすめる。
すぐ隣をすり抜けていった由香子が、振り返りもせず、小さな声で「優一くん」とだけ呟いた。
その一瞬、彼女の指先から優一の手のひらに、四つ折りにされた小さな紙片が滑り込んでくる。
クラスメイトに「悪い、先行ってて」と手を振り、誰もいない階段の踊り場でそっとメモを開く。
彼女の少し丸みを帯びた、けれど丁寧な文字が並んでいた。
『屋上で待ってる』
昨日の美術館での光景が鮮やかに蘇る。
純也が、どんな顔で由香子に向き合い、どんな言葉を発したか。
そして、彼女がどう応えたのか。
その結果を、優一はまだ聞けずにいた。
ずしりとした現実の感触が、軽くなったはずの心に再び静かな波紋を広げる。
錆び付いた鉄の扉を押し開けると、9月の秋めいた風が、夏の残り香をさらうように音を立てて吹き抜けていった。
フェンスの向こうには、どこまでも続く空と、夕暮れの光を浴びて輝く作り物のような蓮畑が広がっている。
その中央に、由香子は一人で立っていた。
「ごめん、急に呼び出して」
振り返った由香子の表情は、無理に作った笑顔で縁取られ、かえってその緊張を際立たせていた。
「別にいいけど」 努めて普段通りの声を出す。
昨日までの自分なら、もっと動揺していただろうか。
失恋という名の経験を経た心は、不思議と落ち着いていた。
脳裏をよぎるのは、昨日の美術館でのことだ。
自分のことに夢中で、純也がそこまで本気で由香子を想っていることに気づけていなかった自分。
純也から『少しだけ二人きりにしてくれないか』と頼まれた時、胸の奥に生まれた小さな棘に見て見ぬふりをした。
そして、彼の背中を押し、「頑張れよ」と笑って送り出したのだ。
あの時の自分に嘘はなかったはずだ。
「うん……。あのね、昨日、あのあと、純也くんに告白されたんだ」
やはり、そうか。
自分が演出した舞台は、きちんと幕を開けたのだ。
「そうか。……あいつ、ちゃんと伝えたんだね」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど静かだった。
ただ、その後の言葉が続かない
由香子は静かに首を振った。
「断ったの」
「え……そうなの」 思わず声が出た。
純也が振られたことへの微かな安堵と、やっぱりそうかとの気持ちが混ざる。
由香子はそんな優一から目を逸らさず、まっすぐにその瞳を見つめた。
夕暮れの空が、彼女の瞳の奥で揺れている。
「私が好きなのは、優一くんだから」
薄々知っていたことでも、言葉になると衝撃を受ける。
友達が想いを寄せる相手から、想いを告げられる。
自分がその恋を後押ししたという、あまりに救いのない皮肉。
だが、由香子はすぐに悲しげに、それでいてどこか吹っ切れたように微笑んだ。
「わかってる。優一くんが私のこと、そういうふうに見てないのは。ずっと隣で見てきたんだから、それくらいわかるよ」 彼女は一度言葉を切り、続ける。
「いいの。でもね、だからこそ、ちゃんと言わなきゃいけないって思ったんだ」
由香子はゆっくりとフェンスに寄りかかり、遠くの山の稜線に沈みゆく太陽に目を細めた。
「純也くんね、すごくまっすぐに言ってくれたの。『好きです。付き合ってください』って。逃げも隠れもしない、本物の言葉で。その時の純也くんの瞳が、すごくまっすぐで……。その瞳に映る自分が、なんだかすごく、中途半端で嘘つきみたいに思えちゃったんだ」
彼女の声は、悔しがってるようにも聞こえた。
「すごく嬉しかった。誰かに本気で思ってもらえるのが、こんなに胸が熱くなることなんだって。だからこそ、思ったの。ただ好きだって言われたから付き合うのは、純也くんの本気に対して誠実じゃないって。そして、私自身の気持ちからも、逃げることになるって」
そこで気づいたのだ、と彼女は言った。
自分は、一番想いを伝えたい相手に、何も伝えていない。
ただ、気づいてくれるのを待っているだけだった、と。
その言葉の一つ一つが、優一の胸に深く突き刺さった。
昨日の自分。
相手の瞳に自分を映すことなく、自分の心という鏡に映る幻だけを追いかけていた。
自分がイディアに抱いていたのは、恋ですらなかったのかもしれない。
ただの自己満足、独りよがりの求愛。
だが、目の前の由香子は違う。
傷つくことを恐れずに。
自分の心に、相手に、誠実であろうとしている。
誠実さ…。
昨日、マキさんと話して、マキさんが掴んだように感じた何か。
自分もそれを掴みたいと思っていた何か。
その答えが、今、目の前にあるような気がした。
相手を自分のものにすることじゃない。
自分の想いを一方的に押し付けることでもない。
ただ、相手のありのままの想いを、曇りのない自分の瞳に映し、受け止めること。
そして、自分の本当の気持ちを、偽りなく相手の瞳に映してもらうこと。
「優一くんに好きになってもらえなくてもいいの。叶わなくても、構わないの」
由香子は再び優一に向き直る。
その瞳には、強い光が宿っていた。
「でも、この気持ちだけは、ちゃんと言葉で伝えないとダメだって思ったの。じゃないと、私は私のままでいられない。純也くんにも、自分自身にも、そして優一くんにも、向き合えない気がして」
それは、恋の告白であると同時に、優一が漠然と探していた「答え」そのものだった。
こみ上げる感情を抑え込むように、大きく息をはいた。
由香子を恋愛対象として見ることは、やはり、できないだろう。
だが、そんなことは、もはや重要ではなかった。
ありがとう、とも、ごめんと言うのも、違う。彼女の覚悟を、想いを、汚すことなく受け止めるには、どうすればいいか。
優一は、由香子の瞳をまっすぐに見つめ返した。
そして、彼女の姿を、その言葉を、彼女という人間のすべてを、自分の目にしっかり映そうと思った。偽りのない彼女の姿を、今の自分にできる、唯一の誠実さで、ただ静かに目に映していた。
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