80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
人生というアート
ギターを修理に出すために、純也とともに優一は楽器屋に来た。
「優一、ありがとう」 閉店前に間に合い、修理の受付を済ませた純也が言った。
「すぐ直るらしいよ」
「よかったね」
「ああ。…次は、前とやり方を変えて、教室に通ってみようと思うんだ」
「この楽器屋の教室に、今ついでに申込んだ」
純也の言葉に少し驚きながらも、優一は「そっか。応援してる」と返した。
楽器屋の前で純也と別れた優一は、再びあの蔦の絡まるレンガ造りの建物の前に立っていた。
浅野画廊。
二度目の訪問に、前回のような硬い緊張はもうない。
リョウジさんには、前もって電話で訪問を伝えておいた。
「イディアを観に行ってもいいですか」
もう一度イディアに会って、自分の気持ちに区切りをつけたかったからだ。
軽やかなベルの音に応えて、奥から現れた浅野良二が、目尻に柔らかな皺を寄せて笑った。
「やあ、優一くん。いらっしゃい。待ってたよ」
「こんばんは、リョウジさん。急にすみません」
もう遅い時間だからか、画廊にお客さんは誰もいない。
挨拶もそこそこに、二人は地下の絵画バー「マーキームーン」へと降りていく。
カウンターの中に立った浅野が、悪戯っぽく笑いながら尋ねた。
「で、今日はドイツとアメリカ、どっちがいい?」
「……アメリカ、でお願いします」
前回と全く同じやり取りに、優一の口元が思わず緩む。
浅野は手際よくグラスに氷を入れ、ドクターペッパーを注いで差し出した。
「イディアとは素面で会った方がいいよね、今日は」
そう言って微笑む浅野に小さく頭を下げ、優一はその絵と向き合った。
リドリー・ライトの『イディア』
イディアに今までのお礼を言って、そしてお別れをしよう。
そう心に決めて、この絵と対峙した。
今ならわかる。
自分が感じていた『イディア』の射るような眼差しへの想いは、恋と呼ぶにはあまりに自己本位なものだった。
この絵に強さとやさしさを一方的に求め、自分の拠り所にしていたに過ぎない。
それでも、変わらないイディアの眼差しを見ると、心が揺さぶられる。
「ありがとう、イディア」
「本当に好きだったんだよ、さようなら」
優一のそんな感傷を打ち破るように、浅野が穏やかに口を開いた。
「ところで、優一くんは、大学で絵をやるのかい?」
グラスを磨く手を止めずに投げかけられた問いに、優一は少し視線を彷徨わせた。
「いえ……美大は、今は考えていません。正直、絵で生きていける自信がなくて」
「自信、か」
浅野は磨いていたグラスを置き、優一に向き直った。
「それは、自分の絵が評価されるかどうか、わからないということかい?」
「……はい。コンクールで評価されたり、誰かに認めてもらえたりしないと、続けていく意味があるのかなって……」
その答えを、浅野は静かに受け止めた。
そして、何かを考えるように少し黙った後、唐突に尋ねた。
「優一くんは、デザインとアートの違いって、何だと思う?」
「デザインと、アート…ですか?」
突然の問いに戸惑いながらも、優一は自分の考えを口にした。
「考えたこともありませんでした…。デザインは、ポスターとか、もっと実用的なもの、というイメージです」
「うん、近いね」と浅野は頷いた。
「デザインは、明確な目的を持って作られる。社会や誰かの役に立つために、問題を解決するためにね。一方でアートは、作り手の内側から湧き上がる衝動、つまり真心から生まれる」
「真心…」 優一がその言葉を繰り返す。
「そう。それが結果として誰かの心を揺さぶったり、たまたま何かの役に立ったりすることはある。もちろん、誰にも理解されず、陽の目を見ないことだってたくさんある」
浅野の言葉は、優しく、そして確信に満ちていた。
「何かを学ぶとき、人はすぐ『これは何かの役に立つんだろうか』って考えがちだよね。でも、本来はそんな必要ないんだよ」
「でも……役に立たないと、食べていけないじゃないですか」
思わず漏れた優一の本音に、浅野は目を細めた。
「もちろん、役に立てばお金という対価を得られるかもしれない。それは一つの豊かさだ。でも、たとえ直接的に役立たなくても、知る喜びや、世界が違って見えるようになる感覚は、また別の、そしてもっと深い豊かさをもたらしてくれる。どちらも、人生を支える本当の糧になるんだよ」
その言葉は、「絵で生きていける自信がない」という優一の不安を、優しく包み込むようだった。
コンクールで評価されたい、誰かに認められたいという気持ちが、それを得られないかもしれないという恐れから、いつしか自分の描きたいという純粋な気持ちを抑え込んでいなかっただろうか。
「そして、僕は思うんだけど、子どもの間はね、役立とうと思わなくていいんだよ。子どもだからね。役に立つことを考えなくていいという意味では、子どもはみんなアーティストなのかもしれないね。優一くんは、もうしばらく、子どものままでいいと思うよ」と浅野は笑った。
「社会というのは、面白いものでね」
優一の戸惑う気持ちを察したかのように、浅野は続けた。
「本来、人々が知識や力を持ち寄って協力し合うための素晴らしいシステムのはずが、同時に、建前、利害、競争、そして同調圧力といった、個人の純粋な感情や意志をすり減らすものでもあるんだよ。つまり意図をもってデザインされてる部分が大きいんだよ。だから、社会の外側でしか、自分の真心を守れない人間もいる。ヒデユキ、リドリーも、そっち側の人間だったのかもしれないね」
「社会の外側ですか」
「そう、社会の外側。アウトサイド・オブ・ソサエティ」
浅野は、そこで言葉を切ると、優一の目をまっすぐに見た。
浅野の瞳の中に、自分の姿が映っている。
「でもね、優一くん。社会の内側で、自分の真心や誠実さを周りに伝えて、良い影響を与えていく人間もいる。誠、安岡先生もそうかもしれない、少なくとも僕もそうありたいと思っている。社会の内側で、自分の大切なものを守り抜いていける強さ。君にも、その強さがあるといい。僕は、そう思うよ」 浅野の言葉に、優一は息をのんだ。
学校で、両親や周りの期待に応えようとしていた自分の姿が脳裏をよぎる。
「僕に、そんな強さがあるでしょうか…」
思わず漏れた優一の呟きに、浅野は優しく微笑んだ。
「真心が誠実さを生み、誠実さが本物を生む。それはデザインもアートも同じだよ。大切なのは、社会の内側にいるか外側にいるかじゃない。自分の真心と向き合えているかどうかだね」
浅野の言葉は、説教じみてはいなかった。
ただ、静かな事実として、そこにあった。
ソーダの泡が弾けるように、優一の心の中で何かが弾けた。
そうだ。
昨日、由香子から教えてもらった「誠実さ」は、自分の「真心」と向き合うなかで生まれるものなのか。
優一の中で、二つの出来事が繋がった。
もう逃げたくない。
社会の中でも、学校の中でも、自分の真心と向き合い、誠実に描いていけばいい。
優一は、もう一度『イディア』を見た。
射るようなその眼差しは、変わらず強さの中に、深い優しさを湛えているように感じられた。
「ありがとうございます」。
グラスを置き、深く頭を下げる優一に、浅野はただ穏やかに頷き返すだけだった。
地下のバーを出て、再び地上へ、画廊から出ると、外はすっかり夜のとばりが降りていた。
まだ風は熱気を帯びていたが、少しだけ涼しく感じられた。
優一の足取りは、来た時よりもずっと、軽やかだった。
そして、浅野が言った言葉を思い出していた。
「僕はこう思うんだ。真心が誠実さを生み、その誠実さが、優一くんの人生というアートを生むんだよ」
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