80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…
安岡の夢
絵画バー『マーキームーン』での浅野との会話は、優一の心に確かな光を灯した。
翌日の放課後、優一は安岡先生が描いたイディアの模写を抱え、美術準備室のドアをノックした。
美術準備室は、油絵の具とテレピン油の匂いが淀み、時間が止まっているかのようだった。
ノックをすると、中から「…どうぞ」という、気の抜けた声がした。
ドアを開けると、窓からの西日で埃が金色に光る中、安岡は椅子に深く体を沈めていた。
机に散らばる画集を眺めているのか、ただ虚空を見つめているのか、その表情からは何も読み取れない。
いつものやる気のないような空気が彼を包んでいる。
「先生、これ、ありがとうございました。お返しします」
優一がそっと絵を差し出すと、安岡はゆっくりと振り返り、その絵と優一の顔を交互に見て、ふっと笑った。
「ああ、それか。いいよ、記念にやるよ」
「えっ、でも……」
優一は返す言葉を見つけられずに立ち尽くす。
安岡は立ち上がると、優一の持っていた絵を軽く受け取り、壁に立てかけた。
そして、まるで何でもないことのように言った。
「俺、学校、辞めることにしたんだ」
その言葉は、準備室の匂いの中にすっと溶けて、すぐには意味をなさなかった。
あまりに唐突な言葉に、優一の思考が止まる。
この人のこういうところが、昔から苦手だった。
いつも唐突で、人の心の準備などお構いなしに、平然と核心を放り込んでくる。
勝手な人だ、と胸の内で反発が芽生えた。
「……辞めるって、どういうことですか」
「ニューヨークに行く。昔、絵の修行をしてた場所に」
安岡は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
その声には、いつもの気だるさだけでなく、何かを振り絞るような響きが混じっていた。
「向こうで、日本人アーティストを支援する組織があってね。…そこで、働くことになった。ずっと前から、心のどこかで考えてはいたんだよ」
「何より直接的にアートに触れていられる。もう一回、自分のアートってやつを、本気で模索してみようと思ってね」
そう語る安岡の目は、わずかに潤んでいるように見えた。
人生を諦めたのではなく、諦めたふりをしていただけなのか。
その痛々しいほどの葛藤が、優一の胸にちくりと刺さる。
「リドリー・ライトの死や、まあ、今回のイディアの絵のこともあってさ。なんだか、見て見ぬふりをしてきた自分の気持ちに、もう蓋ができなくなっちまったんだよな」
安岡は自嘲するように笑うと、今度はまっすぐに優一を見た。
「もう一回、自分に賭けてやりたいんだ。生きてる自分にできることだと思った」
その瞳には、優一が初めて見る、切実な光が宿っていた。
そして、優一の姿が映っていた。
その瞬間、優一の脳裏に、過去の記憶が蘇る。
去年のことだ。
文化祭のポスターを描いている時、「お前は自分の描きたいものを描けよ」と人が違ったように真剣に言った安岡の姿。
あの時、お節介だと感じた言葉が、今ならわかる。
あれは、同じように葛藤に苦しんでいる人間からの、不器用なエールだったのだ。
見透かされているのではなく、心配してくれていただけだったのだ。
「だから、優一。ありがとうな」
安岡からの、対等な人間としての感謝の言葉。
それが、優一の心の中で凍っていた氷を溶かした。
「お前があの絵にこだわってくれたおかげで、俺も何かを思い出せた気がするよ」
踏み込んでくると思っていたのは、ただこの人は正直なだけだったのだ。
壁を作って、先生の心を見ようともしなかったのは、自分のほうだ。
「社会っていう枠の中から、その枠の中に向けて何かを教えるんじゃなくてさ。社会の外側から、社会の中にいる人たちに、新しい価値みたいなものを送り届ける。そんな活動がしたいんだ。アーティストたちの力を借りてね」
その夢を語る安岡の顔には、もう無気力な教師の面影はなかった。
「社会の外側…、リョウジさんも同じ言葉言ってました」
「あぁ、リョウジも、か」と安岡はふふっと笑った。
「安岡先生は、社会の内側で真心を守る人じゃないかと…」
「はははっ、真心を守るか、あいつ、そんなこと言ってたのか」
「内側も外側も、本当は関係ないんだけどな、俺にはちょっと窮屈に感じるんだよな」
「あんまり、俺、器用なタイプじゃないな」と安岡は自嘲気味に笑った。
「先生、頑張ってください」
やっとのことで絞り出した優一のその声は震えていたけれど、初めて心の底から言えた言葉だった。
安岡は優しく微笑むと、壁に立てかけてあったイディアの絵を、もう一度優一の手に戻した。
「お前もな。自分の信じるものを、描き続けろよ」
夕日が落ちきり、部屋の輪郭が曖昧になっていく。
手の中にあるイディアの絵は、優一にとって、ただの模写ではなくなった。
ずしりと重く、そして温かかった。
コメント