【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(29)安岡の夢

80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…

安岡の夢

絵画バー『マーキームーン』での浅野との会話は、優一の心に確かな光を灯した。
翌日の放課後、優一は安岡先生が描いたイディアの模写を抱え、美術準備室のドアをノックした。
美術準備室は、油絵の具とテレピン油の匂いが淀み、時間が止まっているかのようだった。
ノックをすると、中から「…どうぞ」という、気の抜けた声がした。
ドアを開けると、窓からの西日で埃が金色に光る中、安岡は椅子に深く体を沈めていた。
机に散らばる画集を眺めているのか、ただ虚空を見つめているのか、その表情からは何も読み取れない。
いつものやる気のないような空気が彼を包んでいる。

「先生、これ、ありがとうございました。お返しします」
優一がそっと絵を差し出すと、安岡はゆっくりと振り返り、その絵と優一の顔を交互に見て、ふっと笑った。
「ああ、それか。いいよ、記念にやるよ」
「えっ、でも……」
優一は返す言葉を見つけられずに立ち尽くす。
安岡は立ち上がると、優一の持っていた絵を軽く受け取り、壁に立てかけた。
そして、まるで何でもないことのように言った。
「俺、学校、辞めることにしたんだ」
その言葉は、準備室の匂いの中にすっと溶けて、すぐには意味をなさなかった。
あまりに唐突な言葉に、優一の思考が止まる。
この人のこういうところが、昔から苦手だった。
いつも唐突で、人の心の準備などお構いなしに、平然と核心を放り込んでくる。
勝手な人だ、と胸の内で反発が芽生えた。
「……辞めるって、どういうことですか」
「ニューヨークに行く。昔、絵の修行をしてた場所に」
安岡は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
その声には、いつもの気だるさだけでなく、何かを振り絞るような響きが混じっていた。
「向こうで、日本人アーティストを支援する組織があってね。…そこで、働くことになった。ずっと前から、心のどこかで考えてはいたんだよ」
「何より直接的にアートに触れていられる。もう一回、自分のアートってやつを、本気で模索してみようと思ってね」
そう語る安岡の目は、わずかに潤んでいるように見えた。
人生を諦めたのではなく、諦めたふりをしていただけなのか。
その痛々しいほどの葛藤が、優一の胸にちくりと刺さる。
「リドリー・ライトの死や、まあ、今回のイディアの絵のこともあってさ。なんだか、見て見ぬふりをしてきた自分の気持ちに、もう蓋ができなくなっちまったんだよな」
安岡は自嘲するように笑うと、今度はまっすぐに優一を見た。
「もう一回、自分に賭けてやりたいんだ。生きてる自分にできることだと思った」
その瞳には、優一が初めて見る、切実な光が宿っていた。
そして、優一の姿が映っていた。

その瞬間、優一の脳裏に、過去の記憶が蘇る。
去年のことだ。
文化祭のポスターを描いている時、「お前は自分の描きたいものを描けよ」と人が違ったように真剣に言った安岡の姿。
あの時、お節介だと感じた言葉が、今ならわかる。
あれは、同じように葛藤に苦しんでいる人間からの、不器用なエールだったのだ。
見透かされているのではなく、心配してくれていただけだったのだ。
「だから、優一。ありがとうな」
安岡からの、対等な人間としての感謝の言葉。
それが、優一の心の中で凍っていた氷を溶かした。
「お前があの絵にこだわってくれたおかげで、俺も何かを思い出せた気がするよ」
踏み込んでくると思っていたのは、ただこの人は正直なだけだったのだ。
壁を作って、先生の心を見ようともしなかったのは、自分のほうだ。
「社会っていう枠の中から、その枠の中に向けて何かを教えるんじゃなくてさ。社会の外側から、社会の中にいる人たちに、新しい価値みたいなものを送り届ける。そんな活動がしたいんだ。アーティストたちの力を借りてね」
その夢を語る安岡の顔には、もう無気力な教師の面影はなかった。

「社会の外側…、リョウジさんも同じ言葉言ってました」
「あぁ、リョウジも、か」と安岡はふふっと笑った。
「安岡先生は、社会の内側で真心を守る人じゃないかと…」
「はははっ、真心を守るか、あいつ、そんなこと言ってたのか」
「内側も外側も、本当は関係ないんだけどな、俺にはちょっと窮屈に感じるんだよな」
「あんまり、俺、器用なタイプじゃないな」と安岡は自嘲気味に笑った。

「先生、頑張ってください」
やっとのことで絞り出した優一のその声は震えていたけれど、初めて心の底から言えた言葉だった。
安岡は優しく微笑むと、壁に立てかけてあったイディアの絵を、もう一度優一の手に戻した。
「お前もな。自分の信じるものを、描き続けろよ」
夕日が落ちきり、部屋の輪郭が曖昧になっていく。
手の中にあるイディアの絵は、優一にとって、ただの模写ではなくなった。
ずしりと重く、そして温かかった。

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