【小説】あの夏の光(1)僕の世界を構成するもの

高校2年の神木蒼太は、自らを透明なガラスの内側に閉じ込め、教室という水槽をただ観察する少年。彼は言葉を発することを諦め、ウェブサイトに独白のような物語を綴るだけの日々を送っていた

僕の世界を構成するもの

神木蒼太の世界は、一枚の薄いガラスで隔てられていた。
それは、2年3組の教室の窓ガラスでもあり、彼自身の心の殻でもある。
そのガラスの内側から、彼は世界を眺めていた。
だから、彼に見える世界は、いつもどこか現実感がなく、まるでサイレント映画の一場面のようだった。
色褪せて、輪郭がぼやけ、登場人物たちに声はなく、唇だけが動いている。
彼には意味のない風景に過ぎなかった。


教室という名の、透明な水槽。
それが僕の世界。
クラスメイトたちは、その中で思い思いにひれを動かし、泡を立て、時にじゃれ合い、時に威嚇し合う、モノクロームの熱帯魚の群れ。
そして、僕はその水槽の隅で、じっと息を潜める、色のない深海魚のような存在だった。
目立たないこと。
波風を立てないこと。
それが、僕がこの水槽の中で生き延びるために身につけた、唯一の処世術だった。
僕の日常は、観察と記録で構成されている。
例えば、西陽が差し込む放課後の教室で、チョークの粉が光の筋となってキラキラと舞う、その刹那の美しさ。
例えば、昼休みの喧騒の中、購買にパンを買いに廊下を走る、制服の黒い背中の轟。
例えば、体育の授業でボールが行き来するたびに、グランドに立ち昇る土煙のざらついた感触。
僕は、言葉にならないそれらの断片を、心の中に、あるいはノートの隅に、ひっそりと集めていた。
僕の言葉は、口から発せられる前に、いつも喉の奥で砂のように崩れてしまう。
だから、書くことだけが、僕が世界と繋がるための、唯一の手段だった。

幼い頃、不用意に自分が見ている世界を伝えて、失敗したことがある。
「今日の空は、泣きたいくらいに青いね」 近所の幼馴染にそういった僕を、彼はキョトンとした顔で見つめ、 「空は、空だろ。泣くことないだろ。変なやつ」と笑った。
いつからだろうか、僕は僕の内側で渦巻く、複雑で、名前のない感情や風景は、他人に理解されない、意味のないものだと、考えるようになった。
そして、僕の口は、自分の心を語ることをやめた。

そんな僕のモノクロな水槽の中に、たった一つだけ、鮮やかな色彩を放つ存在がいた。

高槻ひかり

彼女は、僕が沈む水槽の中心で、最も優雅に、そして力強く泳ぐ熱帯魚だった。
太陽の光を浴びてキラキラと輝く、明るいブラウンのボブヘア。
快活な声。
笑うたびに愛らしく現れるえくぼ。
彼女は、僕が持っていないもの、すべてを持っていた。
僕が、この色褪せたガラスの内側から、ただ息を潜めて眺めることしかできない「生」そのものを、彼女は全身で謳歌しているように見えた。
その、あまりにも自然な輝きは、僕のような存在にとっては、遠い星の光のように、ただただ眩しく、焦がれる対象でしかなかった。
彼女は、いわゆるクラスの人気者だった。
男女問わずいつも誰かに囲まれ、その中心で太陽のように笑っている。
けれど、僕が本当に心を奪われたのは、彼女のその「光」の部分だけではなかった。
僕は見ていた。
グループ分けで一人余ってしまった、少し気弱な女子生徒の背中に、彼女がそっと寄り添い、「一緒にやろ?」と、周りに気づかれられないくらいの小さな声で囁いたのを。
クラスの派手な男子たちが、少し地味な生徒をからかった時、彼女が「それ、全然面白くないよ」と、凛とした、しかし、決して相手を追い詰めない絶妙な声色で、ピシャリと言い放ったのを。
彼女の優しさは、無邪気な博愛ではなかった。
それは、他者の心の微かな揺らぎや痛みを正確に感じ取る、鋭敏な感受性に裏打ちされた、強かで、思慮深い優しさだった。
彼女は、水槽の隅にいるような僕のような存在にも、ちゃんと気づいていた。

高槻ひかりは、明るく、誰にでも優しい。
その優しさは、僕のような「影」にも分け隔てなく向けられる。
それが、僕にはまぶしすぎて、痛かった。
まるで、深海の暗闇に慣れた目に、突然、強い光を当てられたかのように。
彼女の視線が僕に向けられるたび、心臓が凍りつき、喉の奥が締まる。
何も言えない。
何もできない。
ただ、視線が去っていくのを、息を止めて待つだけだった。
だから、僕は彼女が恐ろしかった。
そして、どうしようもなく、惹かれていた。
ガラスの内側から、決して触れることのできない、あの温かい光に。

僕の日常には、もう一つの世界があった。
放課後、あるいは自室の机に向かう、夜の静寂の中。
ノートパソコンを開くと、そこには僕だけの、もう一つの現実が広がっていた。
物語を、書く。
僕が現実で発せなかった言葉、伝えられなかった感情、そのすべてが、そこでは自由になれた。
主人公は、部屋から一歩も外に出ることなく、ただ、窓の外をスケッチし続ける、少年リク。
彼の、その、あまりに静かな世界は、現実という名の水槽の中で、うまく息ができず、自分の部屋という、小さな泡の中に、閉じこもっている、僕自身の、分身だった。

僕は、ブラウザのお気に入りから、自分が運営するウェブサイトを開く。
訪問者カウンターは、ほとんど動かない。
僕は、数ヶ月前に投稿した章を読み返した。

『リクのスケッチブック』 第七章
――雨が降っている。窓ガラスを叩く無数の涙。その向こうで、世界の輪郭は滲んで溶けていく。アスファルトの黒はより深く沈み、街路樹の緑は悲しいほどに鮮やかだ。リクは、ガラスに映る自分の顔を見る。透明な境界線の、こちら側。濡れることのない安全な場所から、彼はただ、世界が涙に濡れる様をスケッチブックに写し続ける。一滴の雨粒も、彼の頬を濡らすことはない。永遠に。

この章に、たった一つだけ付いているコメント。ハンドルネームは「Lib」。

Lib: リクの目は、世界を解像度の高いカメラのように捉える。だが、レンズの奥にある魂は凍てついているようだ。これは、美しい牢獄の写生画だ。この物語の結末が、ただの美しい屍にならないことを、切に願う。

耳の痛い言葉ばかりだったが、なぜか僕は嫌な気持ちにならなかった。
むしろ、僕の物語をここまで深く読み解き、真剣にぶつかってきてくれる存在がいることに、静かな興奮を覚えた。
Libは、文章も理知的でクール、そして、言いにくいことをスバッと言う。
同類に対するような、連帯感が、顔も知らないLibとの間に芽生えていた。
彼は、僕の、たった一人の共感者だった。
僕はため息をついた、そう、Libのいう通りだ、さらに過去のログを遡る。

『リクのスケッチブック』 第十二章
――遠くの公園から、子供たちの声が聞こえる。甲高い笑い声は、風に乗って、リクの部屋まで届く。それは、まるで違う惑星から届く電波のようだ。意味のわからない、しかし生命の喜びに満ちた信号。彼は、スケッチブックに、楽しげに駆け回る子供たちの、豆粒のような姿を描く。その誰の顔も、判別はできない。それでよかった。

その投稿への、Libからのレスポンス。

Lib: 子供たちの喜びを、まるで異星人の人類学者みたいに冷たく描写する。リクは人間なのか? リクは何かを欲しているのか? それとも、ただの眼球だけの存在なのか? この物語はどこへも進もうとしない。これは、ただの日記か?意味があるのか?私は疑問に思う。

Libの言葉は、いつもナイフのように鋭く、的確に僕の核心を突いてきた。
僕の物語は、停滞していた。
リクは僕であり、僕と同じように、ガラスの内側から世界を眺めているだけ。
そこには何の進展も、救いもなかった。
ただ、孤独を詩的に描写するだけの、自己満足の独白。
僕は、それを変える方法を知らなかった。

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