【小説】あの夏の光(2)ガラスの小さなひび

心を閉ざし、教室の隅で息を潜める高校2年の神木蒼太。太陽のように眩しいクラスメイト・高槻ひかりとは、住む世界が違うと感じていた。しかし、ある化学の授業での出来事が、二人の間を隔てる透明な壁に、小さなひびを入れることになる。
そして、新しい物語を書き始める。

ガラスの小さなひび

隣の席の高槻ひかりは、いつも光の中にいるみたいだった。
休み時間に友達と笑い合う声、教科書をめくる白い指先、窓から差し込む光を受けてキラキラと輝く髪。
そのすべてが、教室の隅で息を潜める僕とは違う世界のものだった。
彼女が存在するだけで、教室の空気は明るく、軽やかになる。
まるで、僕の重たい沈黙を、いとも簡単に吹き飛ばしてしまうかのように。
彼女は太陽で、僕は地面に転がるただの石ころだ。
話しかけたいなんて、おこがましい。
僕と彼女の間には、分厚くて、決して割れることのない透明なガラスがある。
僕はいつも、そのガラスのこちら側から、眩しい彼女をそっと盗み見ることしかできなかった。
その光景は、僕の退屈な日常における、唯一の美しい秘密であり、そして、決して叶うことのない憧れの象徴だった。

その日、僕と世界を隔てていたガラスに、初めて、小さなひびが入る出来事が起きた。
五時間目の化学の授業だった。
先生に指名され、僕はひとり、立っていた。
「この反応において、触媒が果たす役割を活性化エネルギーの視点から説明してみろ」
静まり返る教室。
40人の視線が、僕という一点に集中する。
わかる。
答えは、頭の中にある。
教科書の図が、脳裏に浮かんでいる。
触媒が、反応に必要なエネルギーの山を、まるでトンネルを掘るように低くする、あのイメージ。
だが、言葉にならない。
喉がカラカラに乾く。
唇が、張り付いたように動かない。
頭の中にあるはずの言葉が、音になる前に、すべて、意味のない砂粒になって、喉の奥へと崩れ落ちていく。

「…か、活性化…エネルギー、が…」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、情けなく震えていた。
クラスの数人から、くすくす、と小さな笑いが漏れる。
先生の眉間に、深いため息の影が落ちるのが見えた。
ああ、まただ。
Libの言う通り、僕は僕の物語のリクと同じで、何もできない、どこへも進めない。
諦めと絶望が僕の意識を塗りつぶそうとした、その瞬間だった。

コツンと、机の横で小さな、本当に小さな音がした。
視線を落とすと、僕の机のすぐ脇、床に、一本のシャープペンが転がっていた。
高槻ひかりの、白いシャープペン。
綺麗なそれ。
彼女は、それを拾おうとかがむふりをして、僕にだけ見えるように、自分のノートの端を、指で小さく示した。
そこには、子供のような、丸っこい文字で、こう書かれていた。

『トンネル』

たった四文字。
その言葉が、僕の頭の中で散らばっていた知識の断片を、魔法のように、一つの意味のある線として繋ぎ合わせた。
そうだ!トンネルだ。
エネルギーの山を越えるのではなく、その下にトンネルを掘る。
だから、少ない力で、向こう側へ行ける。

「…触媒は、反応経路を変えることで、活性化エネルギーという、いわば『山の高さ』そのものを低くします。高い山を越える代わりに、その下に『トンネル』を掘るようなものです。だから、より少ないエネルギーで、反応が進むようになります」

自分でも驚くほど、滑らかに言葉が出た。
先生は「…まあ、そうだ。よし」とだけ言い、すぐに次の生徒を指名した。
クラスの視線は、もう僕には向いていない。
嵐は、過ぎ去った。

僕は、心臓の鼓動がまだ少しだけ速いのを感じながら、隣の席に視線を送った。
「ありがとう」
たった五文字。
言うべきだ。
今、言わなければ。
でも、喉に何かが詰まったみたいに、声が出ない。
こんな僕が、彼女に話しかけていいのだろうか。
僕の世界から、彼女の世界に、言葉を届けていいのだろうか。
その資格が、僕にあるのだろうか。
高槻ひかりは、もう僕の方を見ていなかった。
何事もなかったかのように、黒板をまっすぐに見つめている。
ただ、僕が礼を言う前に、彼女がほんの少しだけ、口の端を上げてみせたのを、僕は見逃さなかった。それは、「大丈夫だよ」とでも言うような、秘密を共有する共犯者のような、小さな、本当に小さな微笑みだった。
その微笑みは、僕のような日陰の住人にではなく、彼女と同じ光の世界にいる誰かに向けられたもののような気がして、胸の奥が小さく痛んだ。

その日の夜、僕は憑かれたようにキーボードを叩いていた。
指が、勝手に動く。
今日、僕の世界で起きた、ささやかで、しかし決定的な奇跡。
住む世界が違うと思っていた。
決して交わることのない存在だと。
でも今日、彼女は僕に意識を向けてくれた。
僕の世界を隔てていた分厚いガラスの向こう側から、そっと指で触れてくれたんだ。

僕は、停滞していた自分の物語のページを開く。
リクだけの孤独な世界。
Libが「牢獄」と呼んだ、前に進まない物語の世界。
違う。
これじゃない。
僕が描きたいのは、こんな世界じゃない。

僕は、リクの孤独な世界に、初めてもう一人の登場人物を登場させることを決意した。
物語の中でなら、臆病な僕でも、彼女の隣にいられるだろうか。
ガラスの向こう側から、僕にそっと手を差し伸べてくれた、あの光のような存在を。
僕は、物語に新しい章を書き加えた。
リクが、ひとりの少女をみつける場面を。

僕の指は、止まらなかった。
停滞していた世界の、濁った水が、まるで、堰を切ったかのように、勢いよく流れ出し、新しい物語を、紡いでいく。
『リクのスケッチブック』に、新しい章が、書き加えられた。
それは、リクの孤独な独白の終わりであり、二人が出会い、世界が、ほんの少しだけ、広がるかもしれないという、希望の物語の、始まりだった。

僕は、書き上げたばかりの、その新しい章を、サイトにアップロードした。
画面の向こうで、Libは、この、あまりに突然の、劇的な変化を、どう思うだろうか。
僕が、ついに、彼の言う『牢獄』から、一歩を踏み出し、『日記』ではない、本当の『物語』を、書き始めたことを、彼は、認めてくれるだろうか。
僕のモノクロの世界に、たった一滴だけ落ちてきた、鮮やかな光の雫が、僕の物語を、どこへ、連れていこうとしているのだろうか。
未知なる予感だけが、夏の始まりを告げる、生暖かい夜気の中で、僕の胸を、静かに、満たしていた。

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