誰にも見せない孤独な創作を続ける蒼太。そんな日、彼の聖域である図書室に、密かに惹かれている、高槻ひかりが突然現れる。
図書室の光
あの夜、僕は、『ガラスと、虹色のかけら』を、書き上げた。
それは、僕の、物語の、主人公が、生まれて初めて、ガラスの壁の、外側から、触れられた、という、戸惑いの、記録だった。
僕自身の、魂の、記録。
その、あまりに、個人的で、そして、臆病な、変化を、Libは、どう、見るだろうか。
僕は、期待と、それ以上に、大きな、恐怖を、感じながら、彼の、審判を、待っていた。
数日後。
僕の、その、問いに対する、Libからの、返信が、届いた。
Lib: ほう。写生画は、終わったようだな。
ガラスの壁は、まだ、そこにある。だが、初めて、外側からの、接触があった。 興味深い。作者よ、主人公は、これまで、ただの「眼球」だった。だが、今、彼は、初めて、その、眼球に映った、像の、意味を、考えようとしている。その、虹色のかけら。 作者よ、それは主人公にとって、希望か? それとも、その、静かな牢獄を、ただ、乱すだけの、美しい毒か? 彼は、初めて、壁の内側から、壁そのものに、焦点を合わせた。面白い。だが、忘れるな。 かけらは、しょせん、かけらだ。それだけでは、物語には、ならない。 作者よ、この、小さな、奇跡を、どう、繋げていく?次の展開を、待っている。
僕は、その、テキストを、何度も、何度も、読み返した。
「美しい、罠」
「かけらは、しょせん、かけらだ」
Libの、言葉は、僕の、心の、すべてを、見透かしていた。
僕は、確かに、奇跡の「かけら」を、手に入れた。
だが、それを、どうすればいいのか、わからない。
次のページは、白紙のままだ。
その、問いが、重く、僕の、肩に、のしかかってきたまま、僕は、現実という、喧騒の世界へと、戻っていく。
それから、数日が、過ぎた。
季節は、夏へと、移り変わろうとしていた。
後期の、委員会を決める、希望調査票が、配られ、教室は、どこか、浮足立っている。
だが、僕にとって、それは、関係のないことだった。
どの委員会にも入るつもりはない。
放課後、僕は、いつものように、自分の、聖域である、図書室の、一番奥の、高い書架に囲まれた、秘密の閲覧席で、一人、息を潜めていた。
そこにいる時だけが、僕が僕でいられる、唯一の時間だった。
その、静寂を破り、彼女は、やってきた。 高槻ひかり。
まるで、この場所を、最初から、知っていたかのように、まっすぐに、僕の、聖域へと、やってくる。 僕は、パニックになった。
僕の、ガラスの部屋に、太陽が、何の、前触れもなく、飛び込んできたような、衝撃。
なんで、ここに。
僕みたいな、日陰の、石ころみたいな人間のテリトリーに、どうして君みたいな太陽が。
僕は、咄嗟に、読んでいた文庫本で、顔を隠した。
心臓が早鐘を打つ。
頼むから、気づかないでくれ。
この、醜い恋心が、悟られてしまう前に、早くどこかへ行ってくれ。
高槻ひかりは、悪びれる様子もなく、僕の、目の前の椅子に、ことり、と、軽い音を立てて、腰掛けた。
「神木君…見つけちゃった」
悪戯っぽく、彼女は、笑う。
その笑顔が、僕には眩しすぎた。
僕は、かろうじて、会釈を、返すのが、精一杯だった。
心臓が、耳のすぐそばで、暴れている。
ひかりは、ふぅ、と、少しだけ、芝居がかった、ため息をついてみせた。
「ちょっと、相談があるんだけど…。わたし、後期の図書委員も、続けるんだ。それで、後期って文化祭があるじゃない?図書委員ですっごく、面白い、展示を、やりたいって、思ってるんだけど、私、その、企画担当に、なったんだよね…」
「そう、なんだ」
平静を装って相槌を打つ。
声が、震えていなかっただろうか。
「それで、困っていて。みんな、面倒くさがって、誰も企画担当やりたがらないだよね」
「それでね、誰か、いい人いないかなって、図書委員の顧問の、柳先生に、相談してみたの」
柳先生。
その名前に、僕の心臓がドクンと鳴った。
現国の先生で、僕の詩を褒めてくれた、数少ない理解者…。
高槻ひかりは、続けた。
「そしたらね、先生、推薦してくれたんだ。神木君がいいんじゃないか、って」
僕は、顔を上げた。
隠していた、文庫本が、机の上に、落ちる。
ひかりは、僕の、その、動揺を、楽しむかのように、目を細めた。
「先生、言ってたよ。『神木ほど、この図書室を、愛している生徒は、いない。彼の、読書量と、書くものもとてもいいものだ。今回の「物語」という、テーマの、中心を、任せるなら、彼がいい』って。…なんだか、柳先生にすごい、信頼されてるんだね」
柳先生が。
僕を。
高槻ひかりに?
僕の、秘密の、ガラスの世界と、現実の、太陽の世界が、僕の、知らないところで、繋がってしまっている。
混乱する、僕に、ひかりは、決定的な、一言を、放った。
「それにね、わたしも、そう思う。だって、神木君、いつも、ここにいるじゃない? いつも、すごく、分厚くて、難しそうな本、読んでるから。わたし、企画したり、みんなをまとめたりするのは、好きなんだけど、そういう、難しい本を、いっぱい読んだりするのは、ちょっと、苦手で…。だから――お願い。わたしと、文化祭の企画、一緒に、やってくれないかな?」
頭が、真っ白になった。
彼女が、今、言った、言葉の意味を、僕の脳は、理解することを、拒否しているようだった。
僕が、高槻ひかりと?
一緒に?
そんなこと、ありえない。
天地がひっくり返っても、太陽と石ころが並んで歩くことなんてないんだ。
これは、きっと、夢だ。
僕が、声もなく、固まっていると、ひかりは、一枚のプリントを、机の上に、置いた。
それは、「後期・図書委員、募集」の、案内だった。
彼女は、そこに、自分の名前を、書き込むと、僕の前に、そっと、差し出す。
「もし、少しでも、面白そうだって、思ってくれたら、ここに、名前、書いておいて。明日、わたしが、提出するから」
そして、彼女は、「じゃあね」と、ウインクにも似た、笑顔を残し、去っていった。
僕の前には、一枚の、紙。
「企画担当:高槻ひかり、______」 彼女の名前の、その隣にある、空白。
それは、僕にとっては、あまりに、眩しく、そして、恐ろしく深い、断崖絶壁のように、見えた。
ここに、僕の名前を、書く。
それは、この、安全な、ガラスの内側から、嵐の、外側へと、その身を、投げることに、等しい。
震える手で、ペンを握りしめる。
ペン先は、その、空白の上で、定まらないまま、小さく、揺れている。
書くのか。
書かないのか。
進むのか。
留まるのか。
図書室の、時計の、秒針の音だけが、やけに、大きく、僕の、心臓の音と、重なっていた。
あの、放課後の、図書室での、出来事から、一夜が明けた。
僕は、結局、昨夜、あの、プリントの空白を、埋めることができないまま、浅い眠りの夜を、過ごした。
僕の、机の上には、高槻ひかりの名前の隣に、空白が、ぽっかりと口を開けたままの、あの、プリントが、置かれている。
それは、まるで、僕の、意志の不在を、証明する、告発状のようだった。
自分さえ心を決めれば、あの高槻ひかりに近づくことができる。
こんなチャンスは二度とない。
でも、それは、とてつもなく恐ろしいことだ。
太陽のような彼女に近づけば、僕の、この、薄汚い無価値観も、惨めな恋心も、全て暴かれてしまうだろう。
蝋で固めた翼で飛ぶイカロスが太陽に焼かれて堕ちていったように、僕もきっと、彼女の光に焼かれて、真っ逆さまに墜ちていくんだ。
そして、僕は、消極的な決定として、名前を書かないことにした。
教室の扉を、開けるのが、怖かった。
高槻ひかりと、顔を合わせたら、僕は、どんな顔をすればいいのだろう。
案の定、教室に入ると、ひかりは、いつものように、友達の中心で、太陽のように、笑っていた。
彼女は、僕の存在に、気づくと、一瞬だけ、その瞳を、僕に向けた。
だが、その視線は、何も、問いかけては、こなかった。
まるで、「あなたの、答えは、わかっているよ」とでも、言うように、その視線は、ごく、自然に、僕の上を、通り過ぎていった。
その、優しさが、あるいは、無関心が、僕の胸を、針で刺すように、ちくりと、痛ませた。
一日中、僕は、幽霊のように、授業を、やり過ごした。
そして、運命の、ホームルーム。
担任の先生が、後期委員会の、名簿を、読み上げ始めた。
やがて、「図書委員」の、名前が、呼ばれる。
数人の、名前の中に、もちろん、「高槻ひかり」の名前があった。
そして、その次に、僕の名前が、呼ばれることは――なかった。
ああ、終わった。
僕は、安堵したのだろうか。
それとも、絶望したのだろうか。
その、どちらでもない、感情の、真空地帯で、僕は、ただ、呆然としていた。
僕の、ガラスの世界は、守られた。
僕は、これからも、この、安全な、水槽の隅で、息を潜めて、生きていく。
それで、よかったはずだ。
ホームルームが終わり、生徒たちが、がやがやと、教室を出ていく。
僕は、動けなかった。まるで、根が生えてしまったかのように、椅子から、立ち上がることが、できない。
その時だった。
僕の机の前に、一つの影が、落ちた。
顔を上げると、そこに、高槻ひかりが、立っていた。
「神木君」
彼女の、声は、いつもの、太陽のような、明るさではなかった。
少しだけ、静かで、そして、どこか、真剣な、響きを、持っていた。
「…行こっか」
「え…?」
「図書委員の、最初の、打ち合わせ。文化祭の、企画担当の」
「で、でも、僕は名前を…」
僕が、言いかけると、高槻ひかりは、悪戯っぽく、笑った。
「知ってる。だから、さっきの読み上げで名前、呼ばれなかったんだよね」
彼女は、一枚の、プリントを、僕の目の前に、ひらひらと、させて見せる。
「これ、実はまだ先生に渡してなかったんだ。神木君、きっとギリギリまで悩むだろうなって思って」 それは、僕が、昨夜、あれほど、見つめ続けた、あの、委員会の、希望調査票だった。
「企画担当:高槻ひかり、神木蒼太」
高槻ひかりの名前の隣。
その、空白だったはずの場所に。
僕の、名前が、書かれていた。
丸っこい、けど、どこか力強い、彼女の筆跡で。
「私、今、書いちゃった。これから、先生に提出しちゃったら、ダメかな?」
「…えっ」
僕は声にならない声を出した。
高槻ひかりは、少しだけ、困ったように、眉を下げた。
「…ごめん。勝手なこと、したかな」
「……」
「でもね、わたし、どうしても、神木君と、やってみたかったんだ。それにね、わたし、知ってるよ。神木君が、昨日の放課後、ずっと、図書室に残って、悩んでたでしょ。本当は、名前、書こうとしてたんでしょう?」
彼女は、僕の、すべてを、見透かしていた。
僕の、臆病さも、その、奥にある、かすかな、憧れも。
「もし、本当に、嫌だったら、先生には、出さない。でも、もし…もし、ほんの少しでも、やってみたいって、思ってくれてるなら…わたしの、この、わがままに、付き合ってくれないかな?」
彼女は、僕に、手を、差し出した。
「わたしの仲間になってくれない?」
太陽の光が、教室の窓から、差し込み、彼女の、その、小さな手を、きらきらと、照らし出している。 信じられない。
目の前で起きていることが、何もかも。
いままで味わったことがない幸福感が、全身を駆け巡る。
と同時に、足元が崩れ落ちていくような、悪い予感が背筋を走った。
僕は、震える手で、彼女の、その手を取った。
初めて、触れた、温もり。
それは、僕が、想像していたよりも、ずっと、柔らかく、そして、力強かった。
「…よろしく、お願いします」
僕が、そう言うと、高槻ひかりは、これまでで、一番の、太陽のような笑顔で、笑った。
「うん! こちらこそ、よろしくね!」
僕の、ガラスの世界が、大きな音を立てて、砕け散った。
その破片が、キラキラと光を反射して、あまりにも綺麗で、僕は、自分の悪い予感を、一瞬で、忘れてしまった。

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