【小説】あの夏の光(4)図書室の光

小説

誰にも見せない孤独な創作を続ける蒼太。そんな日、彼の聖域である図書室に、密かに惹かれている、高槻ひかりが突然現れる。

図書室の光

あの夜、僕は『ガラスと虹色のかけら』を書き上げた。
それは僕の物語の主人公が、生まれて初めてガラスの壁の外側から触れられたという、戸惑いの記録だった。 僕自身の、魂の記録。

そのあまりに個人的で、そして臆病な変化を、Libはどう見るだろうか。
僕は期待と、それ以上に大きな恐怖を感じながら、彼の審判を待っていた。

数日後。
僕のその問いに対する、Libからの返信が届いた。

Lib: ほう。写生画は終わったようだな。 ガラスの壁はまだそこにある。だが、初めて外側からの接触があった。興味深い。作者よ、主人公はこれまでただの「眼球」だった。だが今、彼は初めてその眼球に映った像の意味を考えようとしている。その、虹色のかけら。 作者よ、それは主人公にとって希望か? それとも、その静かな牢獄をただ乱すだけの美しい毒か?彼は初めて、壁の内側から壁そのものに焦点を合わせた。面白い。だが、忘れるな。かけらはしょせん、かけらだ。それだけでは物語にはならない。 作者よ、この小さな奇跡をどう繋げていく? 次の展開を待っている。

僕は、そのテキストを何度も何度も読み返した。
「美しい、罠」 「かけらは、しょせん、かけらだ」 Libの言葉は、僕の心のすべてを見透かしていた。

僕は確かに、奇跡の「かけら」を手に入れた。だが、それをどうすればいいのかわからない。
次のページは、白紙のままだ。
その問いが重く僕の肩にのしかかってきたまま、僕は現実という喧騒の世界へと戻っていく。


それから、数日が過ぎた。 季節は夏へと移り変わろうとしていた。
「文化祭実行委員」と「後期」の委員会を兼ねた希望調査票が配られ、教室はどこか浮足立っている。
だが僕にとって、それは関係のないことだった。
どの委員会にも入るつもりも、ましてや文化祭実行委員になるつもりはない。

放課後、僕はいつものように自分の聖域である図書室の、一番奥の高い書架に囲まれた秘密の閲覧席で、一人、息を潜めていた。
そこにいる時だけが、僕が僕でいられる唯一の時間だった。
その静寂を破り、彼女はやってきた。
高槻ひかり。
まるでこの場所を最初から知っていたかのように、まっすぐに僕の聖域へとやってくる。
僕はパニックになった。

僕のガラスの部屋に、太陽が何の前触れもなく飛び込んできたような衝撃。
なんで、ここに。
僕みたいな日陰の石ころみたいな人間のテリトリーに、どうして君みたいな太陽が。
僕は咄嗟に、読んでいた文庫本で顔を隠した。
心臓が早鐘を打つ。
頼むから気づかないでくれ。
この醜い恋心が悟られてしまう前に、早くどこかへ行ってくれ。

高槻ひかりは悪びれる様子もなく、僕の目の前の椅子に「ことり」と軽い音を立てて腰掛けた。
「神木君……見つけちゃった」
悪戯っぽく彼女は笑う。
その笑顔が僕には眩しすぎた。
僕はかろうじて会釈を返すのが精一杯だった。
心臓が耳のすぐそばで暴れている。
ひかりは「ふぅ」と、少しだけ芝居がかったため息をついてみせた。

「ちょっと、相談があるんだけど……。わたし、後期の図書委員も続けるんだ。それで、後期って文化祭があるじゃない? 図書委員ですっごく面白い展示をやりたいって思ってるんだけど、私、その企画担当になったんだよね……」
「そう、なんだ」
平静を装って相槌を打つ。
声が震えていなかっただろうか。
「それで困っていて。みんな面倒くさがって、誰も企画担当をやりたがらないんだよね」
「それでね、誰かいい人いないかなって、図書委員の顧問の柳先生に相談してみたの」

柳先生。
その名前に、僕の心臓がドクンと鳴った。
現国の先生で、僕の詩を褒めてくれた数少ない理解者……。
高槻ひかりは続けた。
「そしたらね、先生が推薦してくれたんだ。神木君がいいんじゃないか、って」
僕は顔を上げた。
隠していた文庫本が机の上に落ちる。
ひかりは僕のその動揺を楽しむかのように、目を細めた。
「先生、言ってたよ。『神木ほどこの図書室を愛している生徒はいない。彼の読書量と、書くものもとてもいいものだ。今回の「物語」というテーマの中心を任せるなら、彼がいい』って。……なんだか、柳先生にすごい信頼されてるんだね」

柳先生が、僕を、高槻ひかりに?
僕の秘密のガラスの世界と、現実の太陽の世界が、僕の知らないところで繋がってしまっている。
混乱する僕に、ひかりは決定的な一言を放った。
「それにね、わたしもそう思う。だって神木君、いつもここにいるじゃない? いつもすごく分厚くて難しそうな本を読んでるから。わたし、企画したりみんなをまとめたりするのは好きなんだけど、そういう難しい本をいっぱい読んだりするのはちょっと苦手で……。だから――お願い。わたしと文化祭の企画、一緒にやってくれないかな?」

頭が真っ白になった。
彼女が今言った言葉の意味を、僕の脳は理解することを拒否しているようだった。
僕が、高槻ひかりと? 一緒に? そんなこと、ありえない。
天地がひっくり返っても、太陽と石ころが並んで歩くことなんてないんだ。
これはきっと夢だ。

僕が声もなく固まっていると、ひかりは一枚のプリントを机の上に置いた。
それは「後期・図書委員募集」の案内だった。
彼女はそこに自分の名前を書き込むと、僕の前にそっと差し出す。
「もし、少しでも面白そうだなって思ってくれたら、ここに名前書いておいて。明日、わたしが提出するから」 そして彼女は「じゃあね」と、ウィンクにも似た笑顔を残し、去っていった。

僕の前には、一枚の紙。
「企画担当:高槻ひかり、______」 彼女の名前の隣にある空白。
それは僕にとってはあまりに眩しく、そして恐ろしく深い断崖絶壁のように見えた。
ここに僕の名前を書く。
それはこの安全なガラスの内側から、嵐の外側へとその身を投げることに等しい。
震える手でペンを握りしめる。
ペン先はその空白の上で定まらないまま、小さく揺れている。
書くのか、書かないのか。
進むのか、留まるのか。
図書室の時計の秒針の音だけが、やけに大きく僕の心臓の音と重なっていた。


あの放課後の図書室での出来事から、一夜が明けた。
僕は結局昨夜、あのプリントの空白を埋めることができないまま、浅い眠りの夜を過ごした。
僕の机の上には、高槻ひかりの名前の隣に空白がぽっかりと口を開けたままの、あのプリントが置かれている。 それはまるで僕の意志の不在を証明する、告発状のようだった。

自分さえ心を決めれば、あの高槻ひかりに近づくことができる。
こんなチャンスは二度とない。
でも、それはとてつもなく恐ろしいことだ。
太陽のような彼女に近づけば、僕のこの薄汚い無価値観も、惨めな恋心も、すべて暴かれてしまうだろう。
蝋で固めた翼で飛ぶイカロスが太陽に焼かれて堕ちていったように、僕もきっと、彼女の光に焼かれて真っ逆さまに墜ちていくんだ。

そして、僕は消極的な決定として名前を書かないことにした。
教室の扉を開けるのが怖かった。
高槻ひかりと顔を合わせたら、僕はどんな顔をすればいいのだろう。
案の定、教室に入ると、ひかりはいつものように友達の中心で太陽のように笑っていた。
彼女は僕の存在に気づくと、一瞬だけその瞳を僕に向けた。
だがその視線は、何も問いかけてはこなかった。
まるで「あなたの答えはわかっているよ」とでも言うように、その視線はごく自然に僕の上を通り過ぎていった。
その優しさが、あるいは無関心が、僕の胸を針で刺すようにちくりと痛ませた。

一日中、僕は幽霊のように授業をやり過ごした。
そして運命のホームルーム。
担任の先生が、後期委員会の名簿を読み上げ始めた。
やがて「図書委員」の名前が呼ばれる。
数人の名前の中に、もちろん「高槻ひかり」の名前があった。
そして、その次に僕の名前が呼ばれることは――なかった。

ああ、終わった。
僕は安堵したのだろうか。
それとも絶望したのだろうか。
そのどちらでもない感情の真空地帯で、僕はただ呆然としていた。
僕のガラスの世界は守られた。
僕はこれからもこの安全な水槽の隅で、息を潜めて生きていく。
それでよかったはずだ。

ホームルームが終わり、生徒たちががやがやと教室を出ていく。
僕は動けなかった。
まるで根が生えてしまったかのように、椅子から立ち上がることができない。
その時だった。僕の机の前に、一つの影が落ちた。
顔を上げると、そこに高槻ひかりが立っていた。

「神木君」
彼女の声はいつもの太陽のような明るさではなかった。
少しだけ静かで、そしてどこか真剣な響きを持っていた。
「……行こっか」
「え……?」
「図書委員の、最初の打ち合わせ。文化祭の企画担当の」
「で、でも、僕は名前を……」
僕が言いかけると、高槻ひかりは悪戯っぽく笑った。

「知ってる。だからさっきの読み上げで名前、呼ばれなかったんだよね」
彼女は一枚のプリントを僕の目の前にひらひらとさせて見せる。
「これ、実はまだ先生に渡してなかったんだ。神木君、きっとギリギリまで悩むだろうなって思って」 それは僕が昨夜、あれほど見つめ続けた、あの委員会の希望調査票だった。

「企画担当:高槻ひかり、神木蒼太」

高槻ひかりの名前の隣。
その空白だったはずの場所に、僕の名前が書かれていた。
丸っこい、けどどこか力強い彼女の筆跡で。
「私、今書いちゃった。これから先生に提出しちゃったら、ダメかな?」
「……えっ」
僕は声にならない声を出した。
高槻ひかりは少しだけ困ったように眉を下げた。

「……ごめん。勝手なことしたかな。でもね、わたし、どうしても神木君とやってみたかったんだ。それにね、わたし知ってるよ。神木君が昨日の放課後、ずっと図書室に残って悩んでたでしょ。本当は、名前書こうとしてたんでしょう?」

彼女は僕のすべてを見透かしていた。
僕の臆病さも、その奥にあるかすかな憧れも。
「もし本当に嫌だったら、先生には出さない。でも、もし……もしほんの少しでもやってみたいって思ってくれてるなら……わたしのこのわがままに、付き合ってくれないかな?」
彼女は僕に手を差し出した。
「わたしの仲間になってくれない?」

太陽の光が教室の窓から差し込み、彼女のその小さな手をきらきらと照らし出している。
信じられない。
目の前で起きていることが何もかも。
いままで味わったことがない幸福感が全身を駆け巡る。
と同時に、足元が崩れ落ちていくような悪い予感が背筋を走った。
僕は震える手で、彼女のその手を取った。
初めて触れた温もり。
それは僕が想像していたよりもずっと柔らかく、そして力強かった。

「……よろしくお願いします」
僕がそう言うと、高槻ひかりはこれまでで一番の太陽のような笑顔で笑った。
「うん! こちらこそ、よろしくね!」

僕のガラスの世界が大きな音を立てて砕け散った。
その破片がキラキラと光を反射してあまりにも綺麗で、僕は自分の悪い予感を一瞬で忘れてしまった。

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