【小説】あの夏の光(6)ガラスの外の理論

柳先生の推薦から高槻ひかりに図書委員に誘われ、一度は断ろうとするも、ひかりのお願いに受け身ながらもその話を受けることに。その出来事が、停滞していた蒼太の物語を前に進めていく。しかし、やはり現実は厳しいものだった。

ガラスの外の理論

あの夜、僕は『虹色のかけらと、光の糸』を書き上げた。
それは、僕の物語の主人公が生まれて初めて、自らの意志で扉を開けるという、決意の物語だった。
僕自身の魂の記録。
そのあまりに個人的で、そして、臆病な一歩を、Libは、どう見るだろうか。
僕は、期待とそれ以上に、大きな恐怖を感じながら、彼の審判を待っていた。

数日後。
僕の、その問いに対するLibからの返信が届いた。

Lib: 光の糸か。 作者よ、君の主人公は、ついに外へと繋がる、地図を手に入れたわけだ。面白いのは、リクが一度、逃げ出したことだ。恐怖が好奇心を上回った。 だが、結局、彼は扉を開けることを選んだ。内なる静寂の重さに耐えかねて。 それは英雄的な決断ではない。むしろ、消極的な選択だ。だが、それでも確かな一歩に違いない。だが、問おう。 その光の糸は、本当にリクを、導いているのか? それとも、ただ彼を、外の嵐の中へと引きずり出すための、美しい罠か?糸の先に何が、待っているのか。あるいは、誰が待っているのか。 作者よ、その筆で、それを確かめるがいい。楽しみにしている。

僕は、そのテキストを、何度も何度も、読み返した。
「美しい、罠」。
その言葉が、僕の心に、深く突き刺さった。
Libは、僕の決意の、その奥底にある、迷いと受動性を、完全に見抜いている。
そして、その一歩の、先に待ち受ける、危うさをも示唆している。
高槻ひかりという少女。
彼女は、僕を導く光なのか。
それとも、僕を破滅へと誘う、美しい罠なのか。
その問いが重く、僕の肩にのしかかってきたまま、僕は現実という喧騒の世界へと戻っていく。


高槻ひかりの、その小さな手を取ったあの瞬間。
僕のガラスの世界が砕け散った、あの感覚。
僕は、どこか無敵になったような気がしていた。
彼女が隣にいてくれるなら嵐の、側の世界も、もう怖くはないと。
だが、それはあまりに甘く、そして、愚かな幻想だったことを、僕はすぐに、思い知らされることになる。

数日後、最初の図書委員会の打ち合わせは、放課後の第二図書室で行われた。
後期図書委員は僕とひかりを含め、七人。
三年生の受験を控えた先輩が、三人。
僕たちと同じ、二年生が四人。
そして、顧問の柳先生が部屋の隅で、静かに文庫本を読みながら、僕たちの議論を見守っている。
議題は、一つ。
文化祭での図書委員会の展示企画について。

ひかりが、企画担当として、立ち上がり、太陽のような笑顔で切り出した。
「今年の展示のテーマは、『物語』です! 図書室の古い本たちに、もう一度命を吹き込んで、来場者が、まるで物語の世界に、迷い込んだみたいな、そんな、わくわくするような展示を、作りたいと思います!」
彼女のその言葉は、希望と熱意に満ち溢れていた。
僕の胸も高鳴った。
彼女の、そのビジョンを、僕らで形にできるかもしれない。
だが、他の委員たちの反応は、僕の想像とは正反対のものだった。
最初に口を開いたのは、三年生の委員長だった。
彼は、分厚い眼鏡の奥から、冷たい目でひかりを見つめている。
「高槻さん、その意気込みは、素晴らしいと思う。だが、我々は現実を見るべきだ」
彼は、一枚のグラフ用紙を机の上に置いた。
「これは、去年の文化祭の来場者アンケートの結果だ。 『図書委員会の展示』の満足度は、全体の最下位。そして、自由記述欄には、『地味』『暗い』『何をやっているのかわからない』という言葉が、並んでいる。そもそも、図書室まで、足を運んでくれる生徒自体が全体の一割にも満たないんだ」
彼のその冷徹なデータに基づいた、言葉に部屋の空気は、一気に冷え込んでいく。
別の二年生の女子が、それに続いた。
「っていうか、私たち、来月には模試もあるし、正直、そんな大掛かりな準備してる時間ないよね?」
「わかるー、どうせ、誰も見に来ないんだし、去年みたいにオススメ本のポップでも作って、並べとけば、いいんじゃない?」
「だよねー」
消極的な意見が、次々と投げかけられる。
それは、僕がずっと恐れていた、ガラスの外側の世界の冷たい現実そのものだった。
誰も期待していない。
誰も望んでいない。
僕たちのやろうとしていることは、ただの自己満足なんだと。

僕は、ただ唇を噛み締め、俯くことしかできなかった。
何か、言わなければ。
僕は、ひかりと握手して仲間になった彼女を守らなければ。
だが、喉はカラカラに乾き、言葉はすべて意味のない砂粒となって、消えていく。
僕の、無力さが僕自身を焼いていた。

僕がそんな不甲斐ない自分に消え入りそうになっている時だった。
僕はふと、ひかりを見た。
太陽のように輝く彼女の隣で、何の言葉も返せずにいる、自分。
ただ、高揚感に浮かれ、彼女がいれば大丈夫だと思っていた、傲慢な自分自身に冷たい水が、勢いよく浴びせかけられたような衝撃が走った。
ああ、これだ。
僕がずっと感じていた漠然とした悪い予感は、このことだったんだ。
僕のような臆病な人間が、彼女の隣に立っていることの滑稽さ。

その時だった。
ひかりが、机をパン、と軽く叩いた。
「――だから、やるんじゃない!」
彼女の、声は静かだったが、その静けさの中には、燃えるような強い意志が宿っていた。
「誰も、来ないから。地味だって思われてるから。だからこそ、わたしたちが、今年それを、変えるんじゃない! 勉強が忙しいのは、みんな同じだよ。でも、だからこそ、たった、一瞬でも、その、忙しさを忘れられるような、特別な場所を作ることに、意味があるんじゃないの?」
彼女は、たった一人で戦っていた。
たった一人で、この巨大な、諦めの空気と対峙している。
僕は、祈るような気持ちで、彼女のその小さな背中を、見つめていた。
だが、現実は、冷たかった。
「まあ、気持ちは、わかるけどね」
委員長が、冷ややかに言った。
「多数決を、取ろうじゃないか。今年の図書委員会の文化祭企画に、大掛かりな労力を割くことに賛成の者は、挙手を」
ひかりの手が、まっすぐに上がる。
僕は――僕は、その、手を、上げることが、できなかった。
恐怖が、僕の、腕を、鉛のように、重くしていた。
ひかり以外の、誰も、手を、挙げなかった。
結果は、一対六。
「…というわけだ。今年の企画は、例年通り最小限の、労力で行う。以上、閉会」
委員長の、その言葉を合図に、他の委員たちは待ってましたとばかりに席を立ち、さっさと部屋を、出ていってしまった。
広い会議室に、僕とひかり、そして、隅で静かに本を読んでいた、柳先生の三人だけが、残された。
ひかりは、椅子に座ったまま、俯いて固まっていた。
その肩が、かすかに震えているのが見えた。
僕は、何も声をかけることができなかった。
沈黙を、破ったのは柳先生だった。
彼は、読んでいた文庫本をぱたんと閉じると、ゆっくりと僕たちの、テーブルへとやってきた。
彼の表情は、いつも通り穏やかだった。
だが、その瞳の奥には、かすかな皮肉と、そして、優しい光が、宿っているように見えた。
「…やれやれ。民主主義というのは、時として、最も、退屈な、結論を、導き出すものだね」
柳先生は、そう言うとひかりの、目の前に腰掛けた。
「高槻さん。君は、なぜ、あれほどまでに、この企画に、こだわっていたんだい?」
その静かな問いに、ひかりは、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「…わたし、転校が、多かったんです」
ぽつり、と、彼女は、語り始めた。
「友達が、できても、すぐに、お別れ。新しい学校では、いつも一人ぼっち。そんな時、わたしの唯一の居場所は図書室でした。誰も知らない古い物語だけが、わたしの友達だったんです」
彼女の、声は震えていた。
「だから、わたしは知ってるんです。この学校にも、きっと、いる。昔のわたしみたいに、一人で息を潜めている誰かが。文化祭の、あの喧騒の中で、どこにも居場所がなくて、逃げ込んでくる誰かが。…わたしは、そのたった一人のために、この場所を特別な場所にしたかったんです」
彼女は、続けた。
「たった一人でいいんです。たった一人にでも、ちゃんと届くなら。そのたった一人のために、やる価値があるって、わたしは思います」
その言葉が、僕の心の、一番深い場所に突き刺さった。
たった一人の読者。
それは、僕がずっと、Libに対して、抱いていた感情そのものだった。

彼女のその言葉を聞いて、僕の中の何かが、決壊した。
彼女は、僕の醜いまでの無力さを、責めようともしない。
むしろ、あの諦めの空気の中、仲間のはずなのに、手を挙げられなかった僕のことも、まるで、最初からそこにいた自然な存在として、受け入れてくれているかのように、ただ、自分の想いを、真っ直ぐに語っている。
その衝撃に、僕は息を飲んだ。
彼女の優しさ、その底知れない強さに、畏敬の念すら抱いた。
駄目だ。
この人を、この世界から、失うわけにはいかない。
強い光を持つ彼女が、いつか、僕の過去のように、誰かの冷たい現実によって、傷つけられることが、たまらなく怖くなった。
僕は、今度こそ、手を伸ばす。
何を失おうとも、この光を、この笑顔を、守りたいと、強く、強く、魂が叫んだ。
そして、同時に、僕は理解した。
この、胸を焼くような、守りたいという強い衝動。
それは、僕が、高槻ひかりという存在に、恋をしていることの、決定的な自覚だった。

柳先生は、満足そうに、頷いた。
「…素晴らしい。それこそが、『物語』の、本質だ」
そして、彼は、僕の方を、見た。
「神木君。君も、そうは、思わないかね?」
僕は、何も、言えなかった。

僕は、鉛のように、重い、自分の、右手を、見つめていた。
彼女を、守るために、上がるはずだった、この、手が、恐怖に、縛られ、動かなかったのだ。
僕は、その、無価値な、肉の塊を、どうすることも、できなかった。

だが、力強く、頷いた。

「よろしい」
先生は、にやりと、笑った。
「委員会は、『公式の』、展示企画を、行わない、と決定した。だが、それは、二人の、有志が、『非公式の』、ゲリラ展示を、この、図書室の、片隅で、行うことを、禁止するものでは、ない。違うかね?」

ひかりの、顔が、ぱっと、明るくなった。
彼女は、涙を拭うと、僕の、目を、まっすぐに、見た。
その、視線が、問いかけている。 「二人だけでも、やる?」と。
僕の、ガラスの世界は、もう、ない。
僕の、臆病さは、まだ、そこにある。

ひかりは、椅子に、座ったまま、僕の方へ、ゆっくりと、体を、向けた。
彼女は、僕の、上がらなかった、右手を、見ることは、しなかった。
ただ、僕の、目を、見つめたまま、まっすぐに、座っていた。
その、視線には、責めるような熱も、失望するような冷たさも、なかった。
あったのは、僕の弱さごと、すべてを知っているという、深い静けさだけだ。
僕は、この時、生まれて初めて「守られる」ことの絶望と、「守りたい」という衝動の、本当の意味を知ったのかもしれない。

僕は生まれて初めて、自分の意志で戦うことを決意した。
「…やります」

僕のその、か細い、しかし、確かな言葉に、ひかりは再び、太陽のような笑顔を取り戻した。
そして、柳先生はまるで面白い物語の始まりを見つけたかのように、静かに微笑んでいた。

多数決で、一度は、消されたはずの虹のかけら。
それは、たった三人の共犯者による静かな、しかし、確かな反乱として、今、再び、その産声を上げたのだ。
この絶望と希望と、そして、恋の始まりを僕は『リクのスケッチブック』として、書かなければと思った。

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