【小説】あの夏の光(9)倍の孤独と、足跡

図書委員の会議での敗北を機に、二人だけの「ゲリラ展示」へと歩き出した蒼太とひかり。 だが、ふたりの最初の作戦会議でひかりが掲げた「英雄の旅」という明るいテーマに、蒼太の”物語”との決定的なズレを感じてしまう。 蒼太は互いの視界の違いに落ち込むも、それでも諦めたくない気持ちを、月明かりの下、すれ違う「リク」と「ヒカリ」の物語にこめた。

倍の孤独と、足跡

あの夜、僕はひかりと出会ってからの、心の揺らぎを、『リクのスケッチブック』の新しい章へと、叩きつけた。
光の糸を辿り、ヒカリと出会えたあの歓喜。
互いの特別な感覚を分かち合えたあの高揚。
そして、その直後に訪れた光の道と音の道との決定的なすれ違い。
再び、分厚いガラスの内側へと押し戻されたかのようなあの深い孤独感。
僕は、そのすべてをありのままに描いた。
それは、Libへと問いかけでもあった。
僕が見つけたこのかすかな光は、僕をどこへ連れていくのかと。

数日後。
僕のその問いに対する、Libからのコメントが入った。

Lib: ほう。糸の先の『答え』にたどり着いたわけだ。 だが、面白い。作者よ、そこで、楽園を見つけなかった。主人公が見つけたのは、『最初の壁』だ。作者よ、主人公の『目』が捉える唯一の光。そして、少女の『耳』だけが、聞き取る絶対の音。 どちらもが真実で、どちらもが孤独だ。「最強の二人になれる」と思ったか?愚かな。 一人で見ていた世界を二人で別々に見るようになっただけだ。 それは倍の、孤独だ。これからどうする? 自分の『目』だけを信じて、再び、一人で歩くのか。 それとも自分には見えない彼女の『音』を信じて、暗闇に一歩を踏み出すのか。 あるいは――第三の道があるのか。本当の旅はここから始まる。 次の答えを楽しみにしてるよ。

僕はその画面を食い入るように見つめていた。
体の奥が冷たく、そして、同時に熱くなるのを感じた。
「倍の、孤独」
Libのその言葉は、僕が心の一番深い場所で感じていた正体不明の絶望の正体を、完璧に言い当てていた。
ひかりと仲間になる前よりも、今のほうがずっと、孤独だ。
分かち合えるかもしれないという、希望を一度、知ってしまったから。
そして、それが叶わないかもしれない、という絶望を突きつけられたから。

Libの最後の問いが、僕の頭の中で何度も反響する。
第三の道。
僕の光と彼女の音。
そのどちらかを選ぶのではない全く新しい道。
そんなものが、本当にあるのだろうか。
Libからのそのあまりに的確な問いに、僕は完全に筆が止まってしまった。
そんな膠着状態の中で、僕とひかりの奇妙な共同作業は続いていた。


それから、数日間。
僕たちのその行き詰まった空気は、全く変わらなかった。
放課後の第二図書室。
僕たちは、同じテーブルには着いているものの、会話はほとんどなかった。
ひかりは彼女のその明るい「英雄の旅」の設計図を、より魅力的に見せるためのデザインの本を積み上げている。
僕は、僕で自分のその形にならない心象風景の正体を確かめるかのように物語論や、象徴主義に関する難解な本を、ただ黙々と読み耽っている。
二つのすれ違う地図。
そのどちらもが行き止まりであることだけは、確かだった。

その日も、僕たちはそんな静かな膠着状態の中にいた。
窓から差し込む西日が床の上の埃を、金色に照らし出している。
その静寂を唐突に破ったのは、頭上から降ってきた声だった。
「…ずいぶん、静かだな。反乱軍の、作戦会議にしては」
不意を突かれたその言葉に、僕とひかりは弾かれたように顔を上げた。
そこには、いつの間にか柳先生が立っていた。
僕たちのテーブルのすぐそば。
気配さえ、感じさせなかった。
その表情はいつも通り穏やかだったが、その瞳の奥には、すべてを見透かしているような深い光が、宿っていた。
「あ、先生…」
彼は、僕たちのテーブルの上に無造作に積み上げられた二つの全く性質の違う本の山を、ゆっくりと、見比べた。
そして、ふぅ、と一つ息をついた。
「…物語、というのは、厄介なものだね」
彼は、独り言のように呟いた。
「ある者にとっては、それは暗い森を照らし出す確かな『地図』になる。どこへ進めば宝物が隠されているのか、そのすべてが記されている万人のための設計図だ」
彼の視線は、ひかりのテーブルの上にある華やかなデザインの本へと向けられていた。
「だが、ある者にとっては、物語とは地図ではない。それは、ただ北を指し示すだけの不器用な『コンパス』にすぎない。どちらへ進むのか、そこに道があるのかさえ、わからない。ただ、魂が惹かれる、方角を指し示すだけの孤独な道しるべだ」
彼の視線が、今度は僕の手元にある難解な哲学書へと、静かに移動した。
僕の心臓が、ドクンと鳴った。
この人は、わかっている。
僕たちのこのどうしようもないすれ違いの本質を、完璧に。

柳先生は、続けた。
「君たちは、今、頭の中だけで答えを探そうとしている。自分の地図の、正しさを証明しようとしたり、自分のコンパスの不確かさに絶望したり。だが、答えはここにある」
彼はその細く長い指で、僕たちの周りを、ぐるり、と指し示した。
薄暗い、書庫。
何万冊という古びた本たち。
「この、埃をかぶった無数の声なき声の中にだ」
彼の声は静かだったが、その一言一言が、僕たちの魂に直接、響いてくるようだった。
「一旦、自分たちのその立派な地図と繊細すぎるコンパスを机の上に置きなさい。そして、ただ、歩きなさい。この森の中を。君たちよりも先に、この森を彷徨った誰かが残していった、小さな小さな足跡を、探すんだ」
彼は、それだけを言うと、僕たちの返事も待たずに踵を返した。
そして、去り際に一度だけ、こちらを振り返り、共犯者のような、笑みを見せた。
「…面白い、足跡が、見つかると、いいな」

残されたのは、僕とひかり。
そして、僕たちの手元にある二つのすれ違う、地図。

柳先生が去った後の図書室。
僕とひかりはしばらく言葉もなく、ただそこに座っていた。
先生が残していった言葉の余韻が、埃っぽい書庫の空気に、まだ漂っているようだった。

「地図」と、「コンパス」
「面白い、足跡を探すんだ」

それは、行き詰まっていた僕たちにとって、一つの救いであり、同時に、途方もなく広大な宿題のようにも思えた。

先に口を開いたのは、ひかりだった。
「…足跡、かぁ…」
彼女は、まるで難しい数式が解けた後のように、何度か小さく頷いた。
「先生の言う『足跡』って、きっとこの本たちのことだよね」
「うん、そうだと思う」
僕も、自分の思考を整理するように言葉を紡いだ。
「書き方とか、見せ方とか、そういう『理屈』じゃなくて。この森で迷った誰かが、何を考えて、何を感じていたのか。その、心の痕跡のことだと思う」

ひかりが、僕の方を向いた。
その瞳に、久々に力強い光が戻っていた。
「頭の中でばっかり、考えてたんだ、わたし。神木君もそうだったでしょ?」
僕は、声もなく頷いた。
「よし!」
彼女は、パン、と軽く柏手を打った。
その乾いた音が、静かな書庫に響き渡る。
「やろう、神木君。足跡探し。先生の言う通りに」
「足跡探し?」
「そう。理屈はナシ。とりあえず、お互いの心が震えた『足跡』を、十個ずつ見つけ出すの。それがきっと、私たちの本当の現在地を教えてくれる気がする」

彼女は悪戯っぽく笑った。
「面白くなってきたじゃん、わたしたちの、反乱」

その日から、僕たちの放課後は一変した。
テーマや企画について議論することは、一切やめた。
僕たちの唯一のルール。
それは、柳先生が言った通り、森の中を歩いてみること。

とりあえずのテーマを決めた。
「それぞれが、心が震えた、十冊の本を見つけ出すこと」

僕たちは、まるで宝探しをする子供のように、広大な図書館の森へと散っていった。

最初はぎこちなかった。
僕は、僕のテリトリーである哲学や海外文学の、薄暗い書架の奥へ。
ひかりは、彼女の得意分野である画集や写真集が並ぶ、明るい窓際の書架へ。
僕たちは、同じ空間にいながら、まるで違う大陸を旅しているかのようだった。

だが、数日が経つうちに、僕たちの間には奇妙な習慣が生まれた。
どちらからともなく、自分が見つけ出した「宝物」を、相手の机の上に、そっと差し出すようになったのだ。
それは、言葉にならない自己紹介であり、魂の交換の儀式のようだった。

最初に僕の机の上に置かれたのは、ひかりが見つけた一冊の古い絵本だった。
『星の王子さま』 僕ももちろん知っている、有名な物語。

「これ、小さい頃大好きだったんだ。綺麗だけど…でも、なんだかすごく悲しくならない?」
彼女は、キツネと王子が別れる、あの有名な一節を指差した。
「『かんじんなことは、目に見えない』って言うけどさ…。じゃあ、どうすればいいんだろうね」

彼女のその問いは、僕がずっと僕自身のガラスの世界の中で、問い続けてきた問いとよく似ていた。
僕は、彼女のその太陽のような明るさの奥底にある、かすかな哀しみの色を初めて垣間見たような気がした。

僕は、その返事をする代わりに、自分の言葉を探すことを諦めた。
今の僕の言葉では、彼女のその哀しみに触れるには、あまりに不器用すぎるからだ。
だから僕は、僕の言葉の代わりに、一冊のSF小説を彼女の前に差し出した。
フィリップ・K・ディックの、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
ひかりは、その奇妙なタイトルに一瞬戸惑いの表情を浮かべた。
僕は、声に出す代わりに付箋を貼った一節を指差す。
そこには、主人公のデッカードがアンドロイドを「処理」した後に感じる、空虚さについて書かれていた。

ひかりは、その乾いた文章を食い入るように読んでいた。
やがて、彼女は顔を上げた。

「…すごい。でも、この作者は、読者に優しくないね」
「え…」
「感傷を、全部、切り捨ててる。本当は、すごく悲しいことを書いているはずなのに、まるで他人事みたいに。…なんだか、読者が試されているみたい」

僕は、鼓動が速くなるのを感じた。
彼女の、その言葉。
それは、あまりに的確で、そして怜悧な批評だった。
僕の愛する、この不器用な物語の本質を、彼女はたった数分で完璧に見抜いてしまった。

それは、魂を見透かすような、鋭い知性の煌めきだった。
僕は、目の前にいる高槻ひかりという少女の輪郭が、ほんの少しだけわからなくなった。
けれど、同時に思ったのだ。
この少女になら、僕の、誰にも理解されなかった「あの話」も、通じるかもしれないと。

そんな静かな宝探しの日々が続いていた、ある日のこと。
図鑑の書架の一番下の段で、僕は一冊の古い図鑑に目を奪われた。

『世界の甲虫図鑑』

その色褪せた表紙を見た瞬間、僕は完全に息をするのを忘れていた。
それは、僕が小学生の頃、毎日毎日飽きることなく眺めていた、僕の最初の「世界」だったからだ。

「…神木君?」

僕がその場で固まっているのに気づいたひかりが、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
僕は、震える手で、その分厚い本を棚から引き抜いた。

「…これ」
僕の唇から声が漏れた。
「これ、僕の最初の友達だったんだ」
「友達?」
ひかりが、不思議そうに首を傾げる。

「小さい頃、僕には友達がいなくて。この分厚い昆虫図鑑が、僕の世界のすべてだった」

僕はページをめくった。
指先が、目的のページを覚えている。
ニジイロクワガタ。
宝石のように輝く、その、奇跡のような甲虫。

「僕、お父さんに言ったんだ。この、ニジイロクワガタのページの、この輝き。これが、世界で一番美しいものだと思う、って」
「うん、すごく綺麗」
ひかりが、僕の手元のページを覗き込む。
その素直な反応に背中を押され、僕は、心の奥底に沈めていた記憶を、ポツリポツリと語り始めた。

「ある日の夕方、空がすごく綺麗で。僕は、父さんのところに走って行って言ったんだ。”今日の夕焼け、ニジイロクワガタの背中と同じ色をしてる。虹色だ!”って」
「お父さん、なんて?」
ひかりが、静かに、けれどまっすぐに聞いてきた。
僕は、一度だけ言葉に詰まり、そして、観念したように続けた。

「…父さんは、言ったんだよ。”夕焼けと、この甲虫。二つを構成する物理現象は、全くの別物だ”って」
「えっ…」
「”そこに『同じ』という関係性は、論理的には存在しない。それは、お前の感傷的な感想だな”って」

蘇る、あの時の、胸が凍りつくような感覚。
大好きなものを、世界で一番信頼していた人に否定された、あの痛み。

「言い返せなかったけど、僕には、同じ、虹色の、光を、放っているように、見えたんだけどね」
「神木くんのお父さんって、何してる人なの?」
「大学で数学を教えている、数学者なんだ」

僕は、自嘲気味に笑った。
「それがショックで…、僕は僕が見ている世界のことを、誰にも話さないようにしようと思ったんだよ。つい、不用意に話してしまって、失敗したことはあるけど….。僕の宝物は、僕だけの箱の中に、鍵をかけてしまっておくべきだって。お父さんのいる、シンプルで、美しい、論理の世界では、僕の宝物は、ただの感傷でしかなかったから」

一気に話しすぎてしまった。
息が切れる。
ひかりは何も言わなかった。
ただ黙って、僕の言葉を聞いていた。

僕は、はっと我に返った。
なんてことを話してしまったんだ。
ずっと隠していた、僕の幼稚なトラウマ。
気持ち悪いと思われたに違いない。

「…ごめん、変な話して」
僕がそう言って顔を伏せると、ひかりは静かに首を横に振った。

「ううん」
彼女は、僕の手の中にある古い図鑑を、優しい指先でそっと触れた。

「…ありがとう、教えてくれて。神木君の宝物、見せてくれて」
彼女の声には、何の同情も憐憫もなかった。
ただ、そこには、僕の孤独な宝物の存在を、そのまま受け止めてくれる、静かで、そして温かい肯定だけがあった。
彼女の声には、何の同情も憐憫もなかった。
ただ、そこには、僕の孤独な宝物の存在を、そのまま受け止めてくれる、静かで、そして温かい肯定だけがあった。

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