「たった一人のための物語」という企画のもと、ふたりは反乱の設計図を完成させた。 蒼太の心象風景「ガラスの部屋」を展示空間として描くと、ひかりは自分にもわかると打ち明ける。 柳先生からの「条件付きの許可」を得て、二人の活動は正式なものとなる。 ふたりの共闘が、ここから始まる。そして、偶然から蒼太の書く物語がひかりに…
魂のプリントアウト
あの夜、僕はひかりとふたりで歩き出した新しい道を、『リクのスケッチブック』の新しい章へと反映させた。
すれ違いの絶望から、灰色のローブの老人が指し示した「第三の道」というかすかな希望。
僕はLibへ回答した。
僕たちは見つけ出した。
この名もなき誰かの「足跡」を辿ることを。
数日後。
僕の回答に対するLibからの返信が届いた。
Lib: 面白い展開だ。作者よ、 主人公たちはついに、自分の「目」や「耳」の正しさを主張するのをやめた。そして、顔も知らぬ過去の誰かの「足跡」に耳を澄ませることを選んだ。自分の視点だけでも相手の視点だけでもない。無数の声なき声が積み重なった歴史という名の地図。それを読み解こうとすること、それこそが「対話」の入口であり、「第三の道」だな。だが、忘れるな。古い地図は、それだけではただの紙切れだ。その足跡がどこへ続いているのか。その先に何が待っているのか。それを見つけ出すのは、いつだって今を生きる者の役目だ。作者よ、主人公たちはその古い地図から、どんな新しい宝物を見つけ出すのか。楽しみにしている。
僕はその画面を食い入るように見つめていた。
「対話」Libが初めて使ったその言葉が、僕の胸に深く響いた。
僕とひかりが図書室で互いの好きな本を見せ合っていたあの静かな時間。
それはまさしく、言葉にならない「対話」だったのかもしれない。
Libの言葉は、僕たちが見つけ出したがすかな光が間違いではなかったと教えてくれていた。
Libからのメッセージに背中を押されるように、僕とひかりの共同作業は熱を帯びていった。
期末テストという重しが取れた校舎は、弛緩した空気に満ちていた。
窓の外では、入道雲が青空を占拠し、野球部の金属バットの快音と蝉時雨が、夏の到来を騒がしく告げている。
あの埃っぽい書庫の中で、「たった一人のための物語展」という僕たちの進むべき道を見つけてから、僕とひかりの間の空気は完全に変わっていた。
ぎこちない沈黙は、熱を帯びた創造の共犯者としての心地よい静寂へと変わった。
僕たちの本当の共同作業が始まったのだ。
放課後の第二図書室。
冷房の効いた室内と、窓一枚隔てた外の灼熱。
その境界線で、僕たちは世界から切り離される。
僕たちが占拠した大きなテーブルの上には、たくさんの本と、そして僕のスケッチブックが広げられている。
「この『ガラスの部屋』のイメージ、すごくいいね!」
ひかりは、僕が以前無意識に描いた、あの孤独な心象風景のスケッチを指差した。
「この、外側からそっと覗き込む感じ。まさに、『たった一人のための物語』って感じがする」
彼女のその言葉に、僕は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「それでね、この壁に書き出す物語の一節なんだけど…」
ひかりが興奮気味に身を乗り出した、その瞬間だった。
彼女の肘が僕のスケッチブックの端に当たり、広げていたテーブルから床に落ちて、ぱらぱらとページがめくれてしまった。
「あ、ごめん!」
「う、ううん…」
僕が慌てて、スケッチブックを拾い上げようとしたその一瞬。
彼女の目が開かれたそのスケッチブックのページにぴたりと止まった。
外の蝉の声が一瞬、遠のいた気がした。
図書室の冷気だけが、僕の背筋を冷たく這い上がってくる。
そこにあったのは、僕がこの展示企画とは全く関係なく、個人的に描きなぐっていたスケッチだった。一枚のガラスの窓。
その外側で、シャボン玉に息を吹きかける少女の横顔。
そして、その次のページには、そのガラスに付着した小さな虹色のかけらを、ただひたすらに様々な角度から描き写したデッサンの群れ。
それは、僕の秘密の物語の断片。
僕の魂の最も柔らかな部分だった。
そして、描かれている少女の横顔は、ひかりのそれだった。
図書室に沈黙が落ちる。
僕は血の気が引くのを感じた。
見られた。
僕のガラスの内側を、見られてしまった。
僕は反射的にスケッチブックを閉じようとした。
だが、ひかりはそれを制するように、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
「… ごめん」
彼女の声は囁きのようだった。
彼女は、そのページに描かれた自分に似た少女の横顔と、虹の破片のような無数のデッサンを、吸い込まれるように見つめていた。
その瞳が一瞬、かすかに揺れる。
彼女の指先が、紙の端で迷うように震えた。
だが、その揺らぎはすぐに凪へと変わった。
「……すごく惹きつけられて。この絵、ただ綺麗なだけじゃない。なんだか、言葉にするのがもったいないくらい、優しい感じがする」
彼女の瞳には、僕が想像していたような好奇心や嫌悪感ではなく、ただ静かで温かい敬意の色が浮かんでいた。
彼女は僕の、その少し常軌を逸した執着を、誰にも言えない祈りそのものとして受け止めてくれたのだ。
「…あのさ、神木君」
彼女はそっと手を離すと、自分に似た少女の横顔のことには触れずに、少しだけためらうように言った。
「絵だけじゃなくて…もしかして、物語とかも、書いたりするのかなって。なんとなく、そんな気がして」
そのあまりに自然な問い。
それは僕の心の一番深い場所を優しくノックするような響きを持っていた。
僕はもう嘘をつくことはできなかった。
僕は声もなく小さく頷いた。
その瞬間、ひかりの顔がぱあっと輝いた。
「やっぱり!ねぇ、お願い、読んでみたいな!神木君が書く物語!」
「神木君が書いてる世界。わたし、知りたいな」
その夜、僕は自室で一人頭を抱えていた。
開け放した窓から、湿った夜風がカーテンを大きく揺らす。
網戸の向こうで、名前も知らない夏の虫が、ジージーと鳴き続けていた。
ひかりが僕の物語を読みたいと言ってくれた。
天にも昇るような気持ちだった。
Lib以外の誰かが。
しかもそれが高槻ひかりが。
僕の世界を知りたいと言ってくれたのだ。
僕はすぐにブラウザを開き、『リクのスケッチブック』のブックマークへとカーソルを合わせた。
このURLを彼女に送れば、すべてが伝わる。
だが、僕の指はそこで固く止まってしまった。
ダメだ。
それだけはできない。
僕の頭の中にいくつもの理由が浮かび上がる。
まず、何よりも僕が最近書いた物語のヒロインの名前。
僕は彼女に何の断りもなく、「ヒカリ」という名前を使ってしまっている。
これを彼女が読んだらどう思うだろう。
僕の下心に気づいて、軽蔑するに違いない。
そして、Libの存在。
あのコメント欄は僕とLibだけの秘密の対話の場所だ。
そこに、ひかりという太陽が入り込んでしまったら、僕たちのあの静かで濃密な月の光の関係性は、すべて壊れてしまうかもしれない。
だが、それ以上に僕の指をためらわせる、一つの苦い記憶があった。
このサイトのURLを知る、たった一人の人間の記憶。
――それは今年の春のことだった。
学校の文芸コンテストに、僕は一篇の詩を提出した。
『わたしたちの自画像』というテーマで募集されていた。
選ばれた作品は、学校の文集『若葉』に掲載される。
応募は記名しなければいけないが、掲載は匿名でもよいものであった。
掲載されても匿名だという安心感から作品を投稿した。
それが、思いがけず僕の詩が入賞してしまった。
数日後、僕は放課後、柳先生に誰もいない面談室へと呼び出された。
「神木君の詩は素晴らしい」
「等身大を描いている誠実さがある」
先生は僕の匿名の詩が印刷されたプリントを手にしていた。
「文集への掲載は匿名がいいんだね」
「はい、匿名でお願いします」
「わかった、それでな、一つだけ事務的な確認なんだが。応募要項に、『未発表のオリジナル作品に限る』とあるだろう。この詩は、どこかの雑誌やアンソロジーには投稿していないかね?」
「…してません」
「そうか。例えば、個人のブログやサイトに掲載している、というようなことは?」
僕は鼓動が速くなるのを感じた。
「…個人的なサイトには、載せています」
「なるほど。個人のサイトへの掲載は、応募規定上『未発表』の扱いで問題ない。だが、念のため、そのサイトを確認させてもらってもいいだろうか。あくまで受賞資格の確認のためだ」
その静かで、しかし逆らうことのできない事務的な口調。
僕は一枚の紙の切れ端に、僕のサイトのURLを書き、震える手で先生に手渡した。
先生はそれに一度目を通すと頷き、その紙をファイルに丁寧に挟み込んだ。
「ありがとう。これで手続きは完了だ。君のプライバシーは尊重する。約束しよう」
あの時の面談室の窓の外の桜の花と、春の空を、僕は今でも鮮明に覚えている。
今のこの部屋の、肌にまとわりつくような熱気とは対照的な、あの冷徹なまでの「整えられた」記憶。
先生は約束を守ってくれたはずだ。
彼の口から僕のサイトのことが漏れたことは一度もないと思う。
彼が僕のサイトを見ているような気配も全くなかった。
だが、問題は先生ではなかった。
問題は僕自身だった。
あのURLを渡してしまった日から数週間。
僕は物語を書けなくなった。
キーボードを叩く指が、常に彼のあの分析的な眼差しに晒されているような気がしてならなかった。
僕が紡ぐ一文字一文字が、彼の「等身大の誠実な作品」という評価の枠の中に、自動的に分類され、標本にされていく。
僕の聖域だったはずのガラスの部屋に、悪意のない観測者が一人、永久に居座り続けている。
その息苦しさに僕は耐えられなかった。
僕の創作は、誰にも知られない、そして誰からも「正しく理解されない」完全な孤独の中だからこそ、初めて自由な息継ぎができていたのだ。
その自意識の不自由さから、僕が抜け出すのにかなりの時間がかかった。
もし今、ひかりにこのURLを教えてしまったら?
また同じことが繰り返されるだろう。
いや、もっとひどいことになる。
相手は柳先生ではない。
高槻ひかりなのだ。
僕の書くすべての言葉が、彼女にどう思われるかを意識してしまう。
僕の物語は僕のものでは無くなり、彼女への手紙になってしまう。
僕の聖域は完全にその意味を失ってしまうだろう。
僕は葛藤の末、一つの結論にたどり着いた。
URLは教えない。
その代わりに、僕が選んだいくつかの物語だけをプリントアウトして、彼女に渡そう、と。
そうすれば、これからも自由に書ける。
そして、読ませたくないものは、渡さなければいい。
僕はノートパソコンのワープロソフトを開くと、『リクのスケッチブック』のいくつかの章をコピー&ペーストした。
そして、まず最初に僕がやったこと。
それは、「ヒカリ」という名前をすべて検索し、別の名前に置き換えることだった。
『ヒカリ』
僕だけが知る、僕の物語の真のヒロイン。
その名前を置き換えるたびに、ナイフで自分の創造の魂を切り離すような、ちくりとした痛みを感じた。
ヒロインの新しい名前は、「ルカ」
ドイツ語で「光をもたらすもの」を意味するその響き。
僕が彼女に捧げる精一杯の敬意と、そして僕の臆病な秘密を守るための偽装。
静かな部屋にプリンターの機械的な駆動音だけが響き渡る。
一枚、また一枚と、僕の魂の断片がインクとなって紙の上に定着していく。
僕は、その二十枚ほどの紙の束を穴を開け、シンプルな黒いファイルに丁寧に綴じた。
時計の針は深夜を回っていたが、部屋の熱気は引かない。
僕は額の汗を拭い、明日からの「夏」を思った。
翌日の放課後。
終業式を明日に控え、生徒たちはすでに夏休み気分で浮足立っていた。
廊下のあちこちで「海行く?」「カラオケ行こうぜ」なんて声が弾けている。
僕はその黒いファイルを鞄の奥に忍ばせ、図書室へと向かった。
それはまるで、爆弾を抱えているような気分だった。
ひかりは既に、第二図書室のいつものテーブルで何冊かの本を広げていた。
僕の姿を見つけると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「神木君!来たね!」
そのあまりに無邪気な笑顔に、自分のちっぽけな偽装を思い、僕の罪悪感がちくりと痛んだ。
僕たちはしばらく展示の打ち合わせをした。
だが、僕の頭の中は鞄の中のファイルのことでいっぱいだった。
ひかりも、どこかそわそわしているように見えた。
やがて、彼女は意を決したように口を開いた。
「…あのさ、神木君。昨日の話なんだけど…」
「え…」
「もし迷惑じゃなかったら、なんだけど…。神木君の物語、読ませてもらえたりしないかな…?」
彼女のその少しだけ上目遣いの問いに、僕の心臓は大きく鳴った。
僕は声もなく頷くと、震える手で鞄の中からあの黒いファイルを取り出した。
そして、それを彼女の前にそっと差し出す。
「…これ」
それは、僕の孤独な魂を秘密という皮で包んだ、たった二十枚の「紙の塊」だった。
「わ…!」
ひかりは宝物を受け取るかのように、そのファイルを両手で受け取った。
彼女がそれに触れた瞬間、僕の心臓が静かに大きく鳴った。
僕が紙に閉じ込めたはずの「秘密」が、彼女の掌の熱で、まるで生き物のように温かくなった気がした。
その一冊のファイルが、僕と彼女の現実世界における、最初の秘密の「共犯関係」の証となった。
彼女はその場で、すぐにページを開こうとした。
「待って」
僕の声は自分でも驚くほど大きかった。
「え?」
「…ここでは読まないでほしい」
ひかりはきょとんとした顔で僕を見つめている。
「…家に持って帰って、一人で読んでほしい。…それと、読み終えても感想とかは別に言わなくていいから。ただ…もし、高槻さんがこの続きを読みたいと思ってくれたら…その時はまた声をかけてほしい」それは僕にできる精一杯の自己防衛だった。
ひかりは僕のその必死の形相をじっと見つめていた。
何かを深く考えているような表情だった。
やがて、彼女は一度だけ小さく頷くと、僕の恐れをそっと包み込むような、慈愛に満ちた笑顔で言った。
「…わかった。そうするね。神木君の大切な秘密。ちゃんと守るよ」
彼女はその黒いファイルを自分の鞄の中に大切そうにしまった。
そして、僕たちはどちらからともなく、その日はもう作業を終えることにした。
帰り道の西日は、肌が痛くなるほど強かった。
僕の魂の爆弾が彼女の鞄の中にある。
明日からは夏休みだ。
僕たちの夏が始まる。
その事実だけで、僕たちの間の空気はもう昨日までとは全く違うものになっていた。

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