【小説】あの夏の光(14)魂への返信

小説

Libのコメントで「対話」の真意を得た蒼太だが、秘密のスケッチブックをひかりに見られてしまう。蒼太はヒロイン名を偽装した、自分の物語の抜粋を黒いファイルにまとめ、「続きを望むなら声をかけてほしい」とひかりに託す。蒼太の魂が詰まったそのファイルは、彼にとっての「時限爆弾」となり、極度の緊張の中で翌日を迎える。ひかりの反応は…

魂への返信

昨日の放課後、僕がひかりのために編集した『リクのスケッチブック』を彼女に渡してから、翌日の学校はまるで生きた心地がしなかった。
一日中、僕はひかりの顔をまともに見ることができなかった。
彼女はいつもと変わらなかった。
友達と笑い、時折僕の方をちらりと見たが、その視線は昨日までと何も変わらないように思えた。
だから、僕にはわからなかった。
彼女はもうあの黒いファイルを読んだのだろうか。
もし読んでいたとしたら、僕のあの独りよがりな世界をどう思ったのだろう。
気持ち悪いと思っただろうか。
退屈だと思っただろうか。
僕の頭の中は、ありとあらゆる最悪の可能性で満たされていた。

放課後。
今日から夏休みが始まった。
終業式を終えたばかりの校舎は、午前中の喧騒が嘘のように引いている。
正門へと続くアスファルトの道には、ゆらゆらと逃げ水が揺れ、遠くに見える校庭の隅には、燃えるような紅い百日紅の花が、風もないのに重たげに揺れていた。
僕はいつも通り、第二図書室のいつものテーブルへと向かった。
心臓がまるで体から飛び出してしまいそうなほど激しく脈打っている。

図書室の重い扉を開けると、遮光カーテンに守られた室内は、廊下の刺すような白光とは対照的な、深い藍色の静寂に満たされていた。
ひかりは既にそこに座っていた。
彼女は本を読んでいるわけでもなく、ただカーテンの隙間からのぞく外を静かに眺めていた。
僕の足音に気づくと、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
その表情は、いつもの太陽のような明るさではなく、どこか静かで、そして僕にはうかがい知ることのできない深い色をしていた。
彼女の手元にはあの黒いファイルが置かれている。

「…神木君」
「…うん」

僕たちはしばらく何もしゃべらなかった。
机の上にある黒いファイルが、まるで時限爆弾のように見えた。
先に沈黙を破ったのはひかりだった。
彼女はそのファイルにそっと指を置いた。

「…泣いてしまった、よ」

その静かな一言が、僕の心を貫いた。
僕は顔を上げることができなかった。
彼女は続けた。
「ただの物語じゃなかった。なんて言うんだろう…。誰かの秘密の部屋にそっと入れてもらった、みたいな感じ。すごく静かで、少しだけ痛くて…でも、信じられないくらい綺麗な部屋だった」

僕の聖域だった、あの冷たいガラスの壁にひびが入った音がした。
いや、ひびではない。
彼女のその言葉の温かさで、その分厚いガラスの境界線がわずかに溶け出し、初めて外の空気に触れたような感覚だった。
分析でも批評でもない。
ただ純粋な、僕の魂への共感。
僕のガラスの部屋のその冷たさと、その中に差し込んだかすかな光の温かさ。
その両方を彼女は完璧に感じ取ってくれていた。
僕は涙が出そうになるのを必死にこらえ、俯いた。

「…あのさ」
ひかりが言った。
「ヒロインの名前、『ルカ』…だよね。どうしてその名前にしたの?」

そのあまりに無垢な問い。
僕はしどろもどろになった。
「あ、いや、それは…なんとなく、響きがいいかなって…」
我ながら、あまりに惨めな言い訳だった。
ひかりは僕のその動揺を楽しむでもなく、ただ静かに聞いていた。
そして、ふふ、と小さく笑った。
その笑顔は、僕が今まで見たこともないような、優しく、そしてどこか切ない色をしていた。

「そっか、わたしはね、読んだ時、こうかなって思ったんだ」
彼女は言った。
「『光』を意味する言葉だからなのかなって。物語の中で、彼女はリクにとってのたった一つの『光』だったから」

ひかりのその言葉に、僕が息をのんだその瞬間。
奇妙なことに、窓から差し込む西日がちょうど彼女の横顔を鮮やかに照らした。
カーテンの隙間からこぼれた一筋の光が、図書室の微細な埃をキラキラと浮き上がらせる。
逆光の中で、その輪郭が黄金色に溶け出していく。
あまりの眩しさに、僕は思わず目を細めた。
まるでその言葉通り、彼女自身が本当に「光をもたらすもの」であるかのように。

彼女は、僕の『響きがいいかな』という臆病な嘘の裏にある本当の動機を見透かした上で、
そのさらに奥にある、僕の本当の願い――彼女に、リクにとっての『光』であってほしい、という声にならない祈り――を、完璧に掬い上げてくれたのだ。
僕の編集された物語。
その逃げの仮面(ルカという名前の選択)の下に隠された、僕の魂の本当のありかを、彼女はいとも簡単に見抜いてみせた。
それは、Libのあの鋭い批評眼とは全く違う。
どこまでも温かく、そして優しい、魂の読解術だった。
僕はもう何も言えなかった。
ただ、彼女のその深淵のような優しさに打ちのめされていた。

ひかりは僕の返事を待つでもなく、あの黒いファイルを僕の前にそっと押し返した。
そして、僕が昨日彼女に言った言葉をそのまま僕に返してきた。
「…それでね、神木君」彼女は少しだけはにかみながら言った。
「この物語の続き。わたし、読んでもいいかな?」

それは、僕が待ち望んでいた言葉だった。
そして、それは、僕が恐れていた言葉だった。
自分の心の最も奥深くに光が差し込むことへの歓びと、その光が差し込んだ瞬間、すべてを否定されるのではないかという身を切られるような不安。
その相反する感情が、同時に僕を捉えていた。
だが、今の僕の心の中に、もう迷いはなかった。
Libとの知的なゲームでもなく、過去のトラウマに怯える自己防衛でもない。
ただ、目の前にいる、このたった一人の読者のために、物語を書きたい。
心の底から、そう思った。

僕は声もなく、しかしこれまでで一番力強く、頷いた。
その瞬間、ひかりの顔に、心の底からの安堵と喜びが浮かんだのを、僕は見逃さなかった。
僕たちの本当の「対話」が、今、この図書室の片隅で、確かに始まったのだ。
外に出ると、夕暮れの空は紫とオレンジが混ざり合った、吸い込まれそうなほど深い色をしていた。
熱を持ったままの風が髪を揺らす。
僕の夏が、今、本当の意味で幕を開けた。

次回は、2026年1月末 リリース予定

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