【小説】アウトサイド オブ ソサイティ(11)純也の部屋

80年代のおわり、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也と共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、早朝の学校に忍び込み、盗み出すことができたが、重大なミスを犯してしまう…

純也の部屋

夕暮れのオレンジ色がアスファルトを染める中、優一は自転車のペダルを必死に漕いでいた。
心臓が早鐘を打っているのは、自転車のせいだけではない。
早く純也に会って、この胸のつかえを吐露してしまいたかった。
ふわりと、どこかの家から夕飯のいい匂いが漂ってくる。
醤油とみりんの甘い香りに、優一は自分の家を思い出した。
中学からの同級生である純也の家は、自分の家と同じ学区の、目と鼻の先にある。
やがて見えてきた我が家を、優一はスピードを落とさずに通り過ぎた。
ごくごく普通の、ありふれた二階建ての民家。
ダイニングキッチンの窓からは温かい色の光が漏れていて、今まさに家族団らんの時間なのだろうと想像できた。
車庫に収まった父親の車も見える。
きっと、今ごろはテレビでニュースを見ているに違いない。
その光景を横目に見た瞬間、母親の顔が脳裏をよぎった。
屈託のないあの笑顔。
その笑顔を思い出すと、優一はたまらなく後ろめたい気持ちに襲われた。
今日の夕飯は要らないと、純也の家に行くからと学校から電話をしていた。
あの笑顔を裏切っているような気がして、胸がちくりと痛んだ。
自分の家から2ブロック先、すぐに目的の家が見えてくる。
純也の家も、優一の家と変わらない、ごく普通の民家だ。
違いといえば、玄関先で小さな雑種の犬がけたたましく吠えていることくらいだろうか。
「ケン、僕だよ、僕」と小声で呼びかけてみるが、威嚇するような鳴き声は止まらない。
見上げると、家の明かりは二階の一部屋、純也の部屋にしか灯っていなかった。
事業を営んでいる彼の両親は、いつも帰りが遅い。
そのせいか、純也は同い歳なのにどこか大人びて見えた。
優一は自転車を止めると、真っ暗な玄関に向かって大きな声で呼びかけた。
「純也、来たぞ!」
中からドタドタと、慌てたように階段を駆け下りてくる音が聞こえる。
すぐにガチャリとドアが開き、ひょこりと純也が顔を出した。
よれたTシャツ姿だ。
「おう、そろそろだと思ってたよ」
こんなことがあった日にも関わらず、屈託なく笑う純也の表情は、悩みなんてひとつも持っていない、と言っているかのようだった。
その太陽みたいな明るい顔を見ると、ずっしりと優一の肩にのしかかっていた重たい気持ちが、少しだけ軽くなる気がした。
こういうところに、いつも救われている。
「上がれよ」
純也に促されて二階の部屋に入るやいなや、優一はたまらず口火を切った。
「おいおい、純也、マジでたいへんなんだって!」
床にカバンを放り出し、焦る優一をなだめるように、純也は「まぁまぁ、落ち着けよ」と冷蔵庫から取り出した缶ビールを手渡してきた。
差し出されたのは、純也がいつも飲んでいるスーパードライ。
広さ6畳ほどのフローリングの部屋には、ベッドと机、それにマンガが詰め込まれた本棚、そして、ミニコンポがある。
優一は、その冷たい床にどさりと座り込んだ。
ひんやりとした感触が、自転車で火照った体に心地よかった。

プシュッ、と小気味いい音を立てて缶のプルタブが開く。
優一は渡されたそれを一口煽り、ごくりと喉を鳴らした。
冷たい液体が食道を通っていくのがわかる。
「で? 何があったんだよ。絵の事がバレたのか」
純也は自分の分の缶ビールを開けながら、ベッドに腰掛けて優一を見下ろした。
その声は、どこまでも平坦で落ち着いている。
「…終わったかもしれない」 優一は、か細い声で呟いた。
「何がだよ」
優一は、美術準備室での安岡とのやり取りを話した。

「マジか。で、本当に安岡に俺たちは見られたと思うのか?」
純也の問いは、常に的確だ。感情を挟まず、事実だけを確認しようとする。
「いや、わからない…。安岡の態度からは全くわからなかった…」
優一は頭を抱えた。
「どうしよう、純也。停学じゃ済まないかも」
母親のあの笑顔が、またちらつく。
俺は、あの人をがっかりさせるのか。
焦りと自己嫌悪で、目の前がぐにゃりと歪む気がした。
しかし、純也の返事は予想外に冷静なものだった。
「ふーん。まあ、あの時、安岡がいたのは仕方ない」
「仕方ないって⁉ どうしたらいいかってことだよ!」
「どうするったって、選択肢なんてないだろ」
純也はこともなげに言った。
 「安岡がいたことは、お前が今ここで頭を抱えても変わらない。時間が戻るわけでもない。だろ?」
「……」
「明日正直に自首するか、何事も起きないように神に祈るか。俺たちにできることなんて、それくらいだ」
純也の言葉はナイフのように突き刺さるが、不思議と優一の混乱した頭を少しずつ整理していく。
そうだ。
僕が今ここでじたばたしたところで、美術準備室に安岡が寝ていたことや窓を開けたままで逃げたことが、変わるわけじゃない。
起きてしまったことは、もう変えられない。
「…だよな。今さら、どうしようもないね」
優一は、乾いた笑いを漏らした。
「ああ。だからもう、腹くくるしかないんだよ。これからどうなるか、とりあえず待つ。成り行きを見守るんだ。それ以外の選択肢は、もう俺たちには残ってない」
その言葉に、すとんと何かが胸に落ちた気がした。
あれだけパニックになっていた心が、不思議と静かになっていく。
優一は、冷たくなった床に背中を預けて、天井を見上げた。
「そうだな、そうだね…でもさ」 ぽつりと、優一は言った。
「ん?」
「もし、時間が戻って、今日の朝に戻れたとしても…僕、たぶん同じことする」
「だろうな」
純也は、わかっていたというように頷いた。
「あの絵を盗みにいくこと以外の選択肢はなかったよな」
それは後悔でも開き直りでもなく、ただの事実として、優一は自分の気持ちを受け入れていた。
他の選択肢なんて、そもそも自分には用意されていなかったのだ。
そう思うと、あれほど重かった罪悪感が、少しだけ輪郭を失っていくようだった。
「だろ? なら、悩むだけ無駄だ」
純也はそう言うと、ベッドから立ち上がった。
「とりあえず、これからのことは何か起きてから考えよう。それより腹減った。なんか作るけど、お前も食うだろ?」
「…うん」
純也のそのいつもと変わらない問いかけに、優一は小さく頷いた。
嵐のような感情が過ぎ去った心に、温かい何かがじんわりと染み込んでくるのを感じていた。

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