さようなら、無傷の私たち
三年生の春。
カフェ・ガラス玉遊戯でのあの奇跡のようなクリスマス・イヴから、季節は静かに巡っていった。
図書室の窓辺には、春の風が桜の花びらを運んできていた。
放課後。
僕とひかりは、柳先生がいる応接室の前に立っていた。
手に持っているのは、僕たち二人のはじめての合作詩。
それは、今年度の校内文芸コンテストに応募するための作品だった。
今回、提示されたテーマは、『私が壊すもの』
入賞作は去年、ひかりが僕の「声」を見つけ、僕らが近づくきっかけとなったあの文集『若葉』に掲載されることになる。
「なんか…不思議な感じ」
ひかりが、少し緊張した面持ちで僕に顔を向ける。
「一年前とずいぶん、変わったね、私たち」
僕たちは、その作品の掲載が叶ったら匿名にすることに決めていた。
僕たちが扉の前で立ち止まっていると、応接室のドアが静かに開き、一人の女子生徒が出てきた。
白石葵だ。
僕がゴミ箱に捨てた「重み」を拾い上げ、あの冬の日、僕の手のひらに戻してくれた人。
彼女は手に持っていたファイルを鞄にしまうと、僕たちを見ていつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「あ、二人も、今から柳先生に?」
「うん、そう、今から」
ひかりの声には、親しい友人にだけ見せる柔らかな響きがあった。
「あおちゃん、今、出し終えたところ?」
「うん、相変わらず、柳先生のあの独特の沈黙には慣れないね」
葵はふふ、と喉の奥で笑った。
「私の詩は、『誰も触れていない新雪の静かな夜』について書いたんだけど。先生には『君の言葉は、行儀が良すぎる。凍えているわけでも、溶けようとしているわけでもない、ただの静止画だ』なんて言われちゃった。……誰にも嫌われないように、安全な場所から言葉を並べていると、いつの間にか自分自身の心臓の音まで聞こえなくなっちゃうのかな、難しいね」
ひかりが、手元の原稿をぎゅっと抱え直した。
「……わかる気がする。私も、ずっとそうだった。誰からも文句を言われないように、完璧な笑顔を張り付けて。そうやって『正しい自分』でいようとするほど、自分の本当の震えに気づかない振りをしなきゃいけなかったから」
葵は静かに頷き、ふと、足元の床に視線を落とした。
何かを迷うように、持っている鞄を抱え直した。
「……神木君。私ね」
彼女は顔を上げないまま、ぽつりと言った。
「神木君のこと、ずっと……すごく冷たい目で見てたの。……気づいてたよね」
不意を突かれ、僕は言葉に詰まる。
葵はそこで顔をあげて僕たちを見た。
いつもの穏やかな顔ではなく、どこか必死な、強張った表情だった。
「……不安だったんだよね。ひかりが、神木君と一緒にいるようになってから……なんか、無理して自分を変えようとしてるみたいで。私たちが知ってるひかりが、なんだろ、いなくなっちゃうみたいで」
葵は一度言葉を切り、悲しげに目を伏せた。
「二人がすれ違っちゃったあとのひかりは、もっと見ていられなかった。いつも無理して笑っているようになって。……私、思ったんだよね、神木君がひかりを壊したんだって」
葵は一息ついて、もう一度僕たちをまっすぐに見る。
その瞳にはもう、かつての鋭さはなく、柔らかな光が宿っていた。
「だから……ひかりが一人で、教室の隅で本読んでるのを見たとき。……私、すっごく安心したんだよね。ああ、神木君が、ひかりを……『本当のひかり』に戻したんだ、って」
その言葉に、ひかりは一瞬だけ教室の方へ視線を泳がせ、それから僕の袖を小さく掴んだ。
「……うん。あおちゃん、心配かけてごめんね。あのとき、私、もう誰かのために無理して笑うのはやめようって決めたんだよね」
ひかりは一度言葉を区切り、ふっと息を吐いた。
「……そうやって一人になることは覚悟していたつもりだったけど、いざみんなの輪から外れると、最初の三日間はやっぱり怖かったな」
「そうだよね。大和くんたちも、どう声をかけていいか分からなくて、遠巻きにしていたしね」
葵はそう言って、ひかりの痛みをそっと肯定するように頷いた。
「でもね、あおちゃん。私、不思議と後悔はしてないんだよ」
ひかりは僕を振り返り、悪戯っぽく笑った。
「みんなといた時より、今のほうが、ちゃんと自分の足で地面を踏んでるって気がするし、ね」
葵は満足そうに微笑むと、今度は僕へと視線を向けた。
「神木君。あの日、ひかりの手紙を返しちゃったあと……、自分のしたことが、本当によかったのか、神木君がそのまま消えちゃうんじゃないかって、私、すごく怖かったんだ。でも、ちゃんとひかりの前に戻ってきてくれて……本当にありがとう、よかったよ。今の二人のかんじ、柳先生もきっと面白いって言ってくれると思うよ」
葵は「じゃあ、またね」言うと、軽やかな足取りで廊下の向こうへと消えていった。
葵の背中を見送りながら、ふと気づく。
かつて葵が僕に向けた鋭い視線。
あれはひかりを案じる心と、僕を追い詰めてしまったのではないかという彼女なりの恐れだったんだ。
自分ばかり見ていた僕には、彼女が背負っていたその重さが、ずっと見えていなかった。
「……あおちゃんには、本当に感謝しなきゃね」
ひかりは去っていく背中を愛おしそうに見つめて呟いた。
「私たちが一度は諦めようとしたものを、繋ぎ止めてくれたんだもんね」
僕たちは深く息を吸い込み、声を揃えて準備室のドアをノックした。
「失礼します」
「どうぞ」
中から聞き慣れた低い声が響く。
柳先生は古びた回転椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めているところだった。
桜の樹が眼前に広がっている。
僕たちは、原稿用紙を先生の前に置いた。
柳先生はゆっくりと視線を桜から原稿へと移した。
タイトルは、『アクアリウムの沈黙』
先生は原稿を手に取り、無言のまま読み進めた。
部屋には時計の秒針の音と、遠くから聞こえる運動部の掛け声だけが響く。
やがて、先生は、ふぅ、と小さく息を吐き、原稿をデスクの上に戻した。
その表情は、相変わらず何を考えているのか読み取れない静けさを保っている。
柳先生は、組んだ指の上に顎を乗せたまま、微かに口角を上げた。
「なるほどね。ガラスの部屋も、太陽の仮面も、完全に砕けてしまったようだ」
アクアリウムの沈黙
水槽の底で、魚たちは「正しさ」を泳ぐ。
指先ひとつで触れられるのに、決して重ならない言葉。
それを、呼吸のように吸い込み、自分を確かめている。
傷つかない場所はもういらない。正午の広場は、踊る人達で溢れかえる。
だけれど、なんのために踊っているか、誰も知らない。
夜になるたび、「大丈夫」という雨が、月明かりを覆う雲から降る。
透明なガラスに残された虹色の痛み。
僕の闇が君の光を暴き、君の温度が僕の沈黙を溶かす。共鳴する、二つの不在は、ひび割れる。
その断面図は、驚くほどよく似た形をしている。砕く。
優しいだけのガラスの部屋を。
砕く。
演じ続けた偽りの仮面を。
さようなら、無傷の私たち。冬の星座は孤独をつないで空に浮かぶ。
暗闇に零された言葉は本に挟まれ、読まれる日を静かに待つ。
本当の名前を呼び合おう、満ちていく月の光の下で。
いつか、詩に変わるまで。
先生は、原稿用紙の端をそっと指でなぞった。
その視線は、紙の上の文字ではなく、僕たちの内側に突き刺さっているようだった。
「以前の君たちの作品は、魂が形式に押し潰されようとする悲鳴だった。あるいは、形式の中に魂を封じ込めて安全を保とうとしていた。……だが、この詩は違う。君たちはついに、自分たちの魂を覆っていた殻を、その手で砕き割ったようだね」
先生は、わざとらしく肩をすくめ、射抜くような眼差しで続けた。
「文学においては、魂と形式が激しく衝突する、その悲劇的な摩擦こそが、最高の光を放つものだ。その衝突がない作品は、退屈だ」
先生は一度言葉を切り、僕たちの顔を交互に見つめた。
「正直に言おう。この詩は、君たちが文学の世界で見せた最後の『摩擦』だ。君たちはこの詩で、自分の抱えていた痛みと、お互いの暗闇を、言葉という武器で完全に撃ち抜いてしまった。……そう、この詩は文学としては、あまりに完成されすぎていて、物語としてはここで終わっている。これ以上、君たち二人の間に語るべき葛藤がないのだから、これは、魂と形式が一致した、退屈な記録だ」
僕たちは、その言葉にぐっと息を詰まらせる。
先生は、僕たちが詩に込めた「決別」と、その先の「空白」を正確に見抜いていた。
「だが」
先生はゆっくりと立ち上がり、僕たちの前にやってきた。
その眼差しは、どこか微笑ましさを帯びている。
「君たちがその文学的な光を捨ててまで、この現実を選んだことは賢明だと言わざるを得ない。魂が暴れる必要のない、幸福という名の枠の中で、これほど穏やかに形式を抱きしめられるなら、それに勝るものはないだろう。文学としては退屈かもしれないがね」
「……そうかもしれませんね」
僕は、隣のひかりと一瞬だけ視線を交わした。
それから、先生に向き直って、深く頭を下げた。
柳先生は、ひらひらと手を振ると、再び回転椅子に座り、読みかけの文庫本を開いた。
僕たちが応接室を出ようとしたとき、奥から先生の声が響いた。
「でも忘れるな! 形式はいつか陳腐化する、気をつけろ!」
廊下に出ると、春の風が吹き抜けた。
「…『魂と形式が一致した、退屈な記録』か」
僕が呟くと、ひかりはくすくすと笑った。
「でも、先生が私たちを『賢明だ』って認めてくれたんだよ? 最高の祝福の言葉だと思わない?」
ひかりは少し悪戯っぽく小首をかしげると、先生の言葉を思い出すように付け加えた。
「最後に『形式は陳腐化する』って言ってたね」
「僕が、そうはさせない」
人目がないことを確認して、隣を歩くひかりの手をそっと握り、すぐに離した。
ひかりはびっくりして、とがめるような顔を作って僕を見た。
そうやって作った表情の隙間から、嬉しさをにじませた本当の笑顔がのぞいていた。
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