【小説】あの夏の光(49)最終話/ふたりが綴る詩

小説

ふたりが綴る詩

そして、時は流れた。
あの『ガラスの部屋』と『太陽の仮面』の夏から十年以上が過ぎていた。
僕たちの部屋は、都心から少し離れた静かな場所にある。
古い団地を改装した、ちょっと西日がきついが明るい空間だ。
リビングには、二つのデスクが肩を並べるように置かれている。
原稿や文献で埋め尽くされた僕の席と、赤ペンや資料が整然と並ぶ、彼女の席。
あの頃、孤独の殻を破り『形式』という壁を越えた僕は、今、高校で教壇に立ちながら小説を書いている。
言葉に傷つき、今まさに言葉の力を必要としている、かつての僕のような生徒たちに、物語の可能性を伝えながら、自らもまた、その続きを書き続けている。

そして、僕の生涯の読者であり、妻となった高槻ひかりは、今、業界で最も信頼される若手編集者だ。
彼女の鋭い感性と的確な分析力は、彼女が僕だけの『Lib』だった頃と何も変わらない。
今夜、この部屋には張り詰めた静けさが漂っている。
僕は、目の前のローテーブルに置かれたマグカップのコーヒーを、一口啜った。
焙煎された豆の香りが、微かに鼻腔をくすぐる。
静けさの源は寝室にあった。

今日、僕は数年ぶりに書いた長編小説『あの夏の光』の最後の原稿を、ひかりに渡した。
それは、僕と彼女の出会いを描いた「僕たちの物語」だった。
彼女は、「誰にも、邪魔させない」と言って、その原稿を持ったまま、寝室に籠もっている。
彼女は、普段、僕の原稿を読む時、編集者の仮面を被る。
だが、『あの夏の光』だけは別だった。
彼女はただのひとりの読者として、その物語を受け取り、読む時は一人であることを選ぶ。

カチ、カチ、とリビングの壁掛け時計の秒針の音が、やけに大きく響く。
ローテーブルのコーヒーカップの脇には、この物語を書くために引っ張り出した文集『若葉』が置かれている。
あの日の柳先生の厳しい批評の言葉とは裏腹に、僕たちと葵の詩はともに、文集のページに並んでいる。

僕は、手持ちぶさたからカップを持ち上げ、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、窓の外の夜景に目を向けた。
あの時、僕たちが『ガラクタの星空』を作った校庭の暗闇は、いまやこの穏やかな街の灯りのなかに静かにほどけている。
蒼色の空には、夜風に吹かれた、ちぎれた雲がスローモーションのように流れている。
その切れ間から、やわらかい光の満月が、まるで僕の様子を覗き見るように、ゆっくりと姿を現してはまた隠れる。

ガチャリ。
寝室のドアが、ゆっくりと開いた。
ひかりが原稿を胸に抱いたまま、リビングに戻ってきた。
彼女の瞳は、案の定、潤んでいた。
太陽の輝きも編集者の鋭さも、今はない。
ただ、剥き出しの魂の温かさがそこにあった。
「…ひかり」
僕は立ち上がりかけた。
彼女は、ゆっくりと僕の前に歩み寄り立ち止まった。
「…蒼太」
その声は震えていた。
「どうだった?」
僕は、緊張を隠せないまま尋ねた。
ひかりは、胸に抱いた原稿をぎゅっと強く抱きしめた。
その腕の力は、僕が知るひかりのすべての孤独と憧れの重さを帯びていた。
かつて、本に挟まれた便箋を介して、不確かな繋がりを求めた少女の面影はそこにはもうない。
目の前にいるたった一人の作者が、自分だけのために書き上げた確かな「僕たちの物語」その現実の、満たされた重さが、彼女の佇まいから僕に伝わってきた。
「…すごく、よかった。あの頃の匂いまで、全部、蘇ってくるみたい」
彼女は、深く息を吸い込んで、少し間を置いて言った。
「いろいろ、思い出しちゃった。あの時、わたしが、どれだけ怖くて悲しかったか。そして、蒼太が、どれだけ無神経だったか」
僕は、思わず、吹き出した。
「無神経、ね。さすがは、僕の読者だね」
彼女は目を閉じ、ゆっくりと涙を拭った。
「蒼太って、ずっと無神経のままよね、例えば……大学二年の冬、私たちが一度別れた時とか」
僕は、思わず苦笑した。
今でこそ笑い話だが、当時は互いに身を削るような、痛切な「倍の孤独」を味わった時期だった。

大学時代、同じ劇団サークルで僕は脚本を書き、ひかりは舞台に立った。
かつて仮面に隠していた彼女の本当の顔は、舞台の上で「魂の叫び」へと昇華され、多くの人を惹きつけていた。
誰もが彼女を称賛し、スポットライトの中心にいるひかりはまばゆかった。

けれど、それは同時に、僕のなかに澱のようなコンプレックスを溜め込ませた。
観客の歓声を浴びる彼女の隣で、僕はただの「脚本家」という日陰の存在にすぎないのではないか。
彼女の輝きを前にするたび、自分の無力さと、ガラスの向こうに取り残されたような孤独が疼いた。

焦りやひかりへの対抗意識から、当時の僕は、多くの人を巻き込む大きな脚本を書こうとしていた。
けれど、それは全く上手く行かず、やがて筆が折れた。
そんな自分の小ささに絶望した僕は、その痛みをひかりに打ち明けることすらできず、卑屈なまま彼女のもとから逃げ出した。
あの時、僕たちは完全にすれ違い、本当に二度と戻らないところまで離れてしまったように思えた。

けれど、お互いに傷つき、ボロボロになりながら離れていく過程で、僕は悟った。
いや、おそらくはひかりも同じように気づいたのだろう。
派手な喝采や、多くの人を熱狂させる大きな物語なんていらなかったのだと。
その気づきをきっかけに、僕らは元のふたりに戻った。
たった一人の読者である彼女に届ける言葉だけが、僕を暗闇から連れ戻してくれるのだと知った。
それを知るために、僕は一度、すべてを失わなければならなかった。

「うっ、それは……、形式が見事に陳腐化した、よい事例だね」
僕は精一杯、動揺を隠して言った。
「本当よね。次、あれを書いてみたらどう?」
「勘弁してくれよ。あれを書くには、まだ僕の筆力が追いついていないよ」
僕はわざとらしく肩をすくめて、そして、あの本の一節を引用した。
「『けれどもこれは別の物語、いつかまた、別の時に話すことにしよう』……ってね」
防戦一方の僕を見て、ひかりは小さく吹き出した。

「で、編集者として、何か指摘する点はないのかな?」
僕は話を逸らしたくて、『あの夏の光』の話に戻した。
ひかりは原稿の表紙に目を落として、少しだけ息をついた。
「編集者としての指摘なんて、できるわけないでしょう……。こんなの、読まされたら何も言えないわ」
「…ただ、高槻ひかりとして、一点だけ言わせていただいて、いいかしら?」
彼女は高槻ひかりの顔で、少しふざけた口調で言った。

僕は思わず身構えた。
「なに? 僕の無神経なら、もう勘弁してよ」
その僕の声に言葉も返さず、ひかりは手の中の原稿から、最終章の数枚を引き抜き、その結末のページを指差した。
そこには、僕がLibの正体を知り、彼女と初めてキスをするシーンが描かれていた。
「この、結末の、描写」
ひかりは、僕をまっすぐに見つめた。
「『ひかりが僕へと近づいた。その唇が、震える僕の言葉をそっと塞ぐ』…って、書いてるでしょう?」
「ああ。そう、だった、だろ?」
ひかりは、突然プイッとそっぽを向いた。
そして、少し頬を赤らめながら言った。
「…違うわよ。あれは、私からじゃなかったわ。蒼太からよ!」
僕の頭の中が真っ白になった。
「えっ、僕から…?」
ひかりは、勢いよく僕の方を振り向いた。
「そうよ! いきなりでびっくりしたんだから! 知ってるでしょ、初めてだったのよ!」

僕は、当時の自己中心的な妄想と実際の行動の記憶が混ざり合っていることに気づき、恥ずかしさで、全身が熱くなった。
「あ、ああ…ごめん、ごめん」
僕は、顔を手で覆った。
「ちょっと、記憶が…なんだろ…、かっこつけちゃった、のかな」
僕がそう言って照れると、ひかりはもう一度、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、太陽でも月でもない、ただ僕だけの光だった。
「…まったく。自分の『魂』と『形式』を誰よりも知ってるくせに、最後の最後で『真実』を書き換えようなんて」
ひかりは、僕にそっと寄り添った。
「まあ、いいのよ。それが小説でしょう?」

彼女はそこで、ふと編集者の顔になった。
「あ、そうだ。最終的な形式の話なんだけど」
彼女は原稿の表紙を軽く叩いた。

「蒼太、この小説、私たちや柳先生、登場人物の実名、そのまま使ってるでしょう。 出版するには、ここは形式として変えないとね。小説には小説の形式があるの」
「わかってるよ。僕もそのつもりだよ」
僕は苦笑した。

「わかってるならいいわ。出版が決まったら、みんなに伝えなきゃね」
彼女は、そう言って、『あの夏の光』の原稿をローテーブルに置き、代わりに僕の空のマグカップを手に取った。
「コーヒー、おいしかったでしょう?いい豆がめずらしく特売だったのよ。おかわり淹れてきてあげる」

彼女は涙跡を気にするように頬を手の甲で拭って、キッチンに向かった。
その後ろ姿を見ながら、僕は改めて強く思った。
僕たちの物語は終わってはいない。
そう、あの時、僕が終わらせてしまったリクとヒカリの物語でさえ、あの後、ふたりはどこかで再会して、きっと今は微笑み合って暮らしているに違いない。
たとえ僕が書かなくても。

だからこそ、僕が言葉を紡ぎ、彼女がそれを読む限り――この「たった一人のための物語」はフィクションと現実の境界線上で、永遠に解き放たれ、続いていくのだろう。

ふと、リビングの片隅の本棚が視界に入る。
そこに、あかがね色のあの本が二冊、静かに並んでいた。

【未完】あの夏の光

<エンドロール曲>はてしない物語

あの夏の光(あとがき・たった一人のための物語)にリンクする

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