【小説】あの夏の光(32)『物語』の影を追って

小説

柳先生からのカンパは、二人の間に「現実」という名の波紋を投じた。廃材のみで表現する「反乱」の美学に固執する蒼太に対し、ひかりは最高の展示という目的のために新品のライトの購入を主張し、蒼太は己の魂がすり減る感覚を抱えながらもそれに同意する。さらに、ひかりが客を呼ぶためのポスター制作を提案したことで、二人の価値観のズレは表面化。蒼太の冷たい拒絶を察したひかりは自ら提案を取り下げるが、守られたはずの蒼太の「聖域」には、微かな、しかし確かなすれ違いの影が落ちていた。

『物語』の影を追って

カフェでの出来事から数日後。
文化祭の準備は順調に進み、僕たちのガラクタのアトリエは、創造的な熱気に包まれていた。
僕の心は、信じられないほどの高揚感に満たされていた。
カフェで、僕の最も脆い部分を告白した時、ひかりは、それを『デミアン』の言葉で、完璧に肯定してくれた。
僕の『魂』は、彼女によって『解放』された。
彼女は、僕の『ガラスの部屋』を外から破ってくれた、唯一の存在だ。
僕は、ひかりを、心の底から信頼していた。
二人の心の距離は、もう、ゼロに等しいとさえ思っていた。

その日、僕は書き上げたばかりの『星祭りの共鳴』の原稿を、プリントアウトしてひかりに渡した。  
ひかりは、アトリエの隅で、それを一字一字噛みしめるように読み耽っていた。  
僕は壁画の仕上げをしながら、背中で彼女の気配を感じていた。
沈黙が流れる。
やがて、原稿をめくる手が止まり、小さく息を呑む音が聞こえた。

ひかりが顔を上げた時、その瞳は潤んで、細かく揺れていた。
「……神木君、これ……、すごすぎるよ」
彼女の声は、いつもの明るさというより、深い震えを帯びていた。
「アルド市長がチェロを抱きしめて泣くところ……。私、読んでて自分の心臓の音が聞こえるくらいドキドキしちゃった。三十年分の氷が溶けて、街中に光が溢れ出していく光景が、目の前に見えるみたい。……こんなに優しくて、力強い救いがあるなんて思わなかった」

彼女は原稿の束を、まるで壊れやすい宝物のように胸に抱きしめた。
「最後、二人が羅針盤を持って旅立つシーン……『目的地が霧に隠れても、こいつが指す北だけは変わらない』っていう言葉、私、ずっと忘れないと思う。神木君は、本当に魔法使いだね。ガラクタの中に眠ってた祈りを、全部本物にしてあげたんだね」

ひかりの真っ直ぐな称賛に、僕の視界は一気に明るくなった。
安堵と誇らしさで、胸の奥が熱くなる。
彼女こそが僕のミューズであり、この物語を完成させるための、世界でたった一人の理解者だ。
だが、ひかりは胸に抱いていた原稿をゆっくりと膝の上に置くと、ふと窓の外の、暮れなずむ校庭を見つめた。

「ねえ、神木君。……この物語があまりに完璧で、美しいからこそ、私、怖くなっちゃった」 「え……? 怖い?」
「うん。……ダルボさんやセレネさん、みんながあまりに綺麗に許し合って、救済されていくから。リク君が『正解』のスイッチを入れた途端、運命のパズルがカチッとはまって、最高の絵が完成しちゃう。……それは、神様が見る景色としては、これ以上ないくらい幸せな大団円だと思う」

ひかりの瞳に、見たこともないような深い陰が差した。
その視線は、僕の原稿を通り越して、足元の何もない暗がりを凝視している。
「でも、現実の『違い』は、もっと残酷かもしれない。リクくんの『目』が見ている黄金色の光と、ルカ(ヒカリ)ちゃんの『耳』が聴いている、何百万もの捨てられた物の泣き声……。二人が抱えている『真実』が、どうしても譲り合えないところで激しくぶつかり合ったら、どうなるんだろうって」

原稿を握る彼女の指先が、微かに震え、白くなっている。
「リクくんが『たった一人の正解』を信じて光を放とうとしたとき、隣にいるルカ(ヒカリ)ちゃんが、その足元に広がる『救われないノイズ』に耐えられなくなって、耳を塞いで泣いていたら? そのとき、リクくんは彼女を置いていくの? それとも、自分の『正解』を捨てて、彼女と一緒に暗闇に残ってくれるのかな……」

その震えを見た瞬間、僕の胸をざわつかせたのは、不吉な予感などではなかった。
逆だ。
僕はただ、興奮していた。
僕の書いた『光』が、彼女の魂をこれほどまでに激しく揺さぶり、彼女の内側に眠る『影』を引き出したのだ。
これこそが、僕たちが求めていた真の共鳴ではないか。
「……すごいな、高槻さん。そこまでこの二人のことを、自分のことみたいに考えてくれるなんて」

僕が声をかけると、ひかりは弾かれたように顔を上げた。
その瞳がわずかに揺れていた気がしたが、彼女はすぐに、いつもの笑顔を見せた。

「ありがとう。たしかに、高槻さんの言う通りだ。光だけじゃなくて、修復不可能な『影』も描かないと、本当の人間は描けないよね。次の章は、その『絶望的なすれ違い』をテーマに書いてみるよ。高槻さんの、その鋭い感性を借りて」

「うん。……楽しみにしてるね、神木君」

ひかりは再び、ぱっと弾けるような笑顔に戻って、ペンキの準備を始めた。
彼女が僕に背を向け、作業に戻るその後ろ姿には、今までになかった「深み」が備わっているように見えた。
彼女の提案した『絶望』という彩りが、ただの綺麗な物語から、本当の物語へと押し上げていく。

僕の心は、新しいテーマに取り組む創造的な喜びに満たされていた。
彼女が僕の『庇護』の告白を受け入れてくれたように、今度は僕が、彼女の提案する『影』を、物語として完璧に飲み込んでみせる。
この完璧な共犯関係があれば、僕は、僕自身の『ガラスの部屋』を完全に壊し、どこまでも強くなっていける。
僕の筆は、次の物語の光景を求めて、勢いよく動き出すのだった。

次話(33話 物語リクのスケッチブック「砕け散った羅針盤」)へリンクする
<ひかりのアドバイスに従い、蒼太はリクとヒカリの決定的な破局を描いた>

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