ひかりの提案によって描かれた「決別」の章に対し、彼女は絶望が都合の良い「綺麗な悲劇」に仕立てられていることへの違和感を訴える。しかし、自らを高みに置く蒼太は、彼女の切実なSOSすらも傑作を彩るための「形式」として傲慢に処理してしまう。強烈な光の足元でひかりが両耳を塞ぐ現実に気づかぬふりをしたまま、蒼太は彼女の痛みさえも自らの物語で「感動」へと翻訳できるという、歪んだ確信へと突き進んでいく。
亡き王女のためのパヴァーヌ
僕はひかりの助言を元に、リクとヒカリの決別を描き直そうとしていた。
だが、ペンは驚くほどに進まなかった。
二人の心が離れ、修復不可能な亀裂が生まれる様を、よりリアルにしようとするたび、心臓の奥を冷たい指で直接掴まれるような、得体の知れない嫌な予感に襲われる。
ノートPCの画面が、まるで底なしの沼のように見えて、書き進めるほどに自分自身が泥の中に引きずり込まれ、押しつぶされそうになるのだ。
(……これはただの物語だ。僕たちの関係とは何の関係もない)
そう何度も自分に言い聞かせ、逃げ出したい衝動を抑え込んで書いたが、僕はどうしても「決別」の章を書き直すことができなかった。
疲弊感は尋常ではなく、僕は逃げるようにノートPCの前から離れた。
僕たちの『たった一人のための物語』展の設計図は、完成に近づいていた。
アトリエには、壁画に使うチョークの粉っぽさと、乾きかけのペンキの匂いが混じり合い、独特の空気を醸し出している。
作業の手を休めた休憩時間。
ひかりが封筒を一つ、テーブルの上にそっと置いた。
「ねえ、神木君。照明を買っても、まだ1万円以上も残ってる。……これ、どうしようか」
先生は『余ったら本でも買え』と言ったが、僕はその封筒をどこか遠巻きに眺めていた。
「……返したほうが、いいのかもしれないね」
「えっ、返す、どうして?」
「ほら、『廃材を使う』のが僕たちの反乱の一応ルールだったし、五千円のライトですら、僕には分不相応な贅沢に感じるんだよ。できるだけ自分たちのコンセプトを守りたいんだよね」
僕は、チョークで汚れた自分の手を見つめた。
ライトの購入は、ひかりの意見を受け入れたが、僕の本心としては、
お金という便利な形式に頼ることに、本能的な拒否反応を覚えていたのだ。
ひかりは少しの間、その封筒と僕を交互に見つめていた。
やがて、彼女は何かを思いついたように顔を輝かせた。
「じゃあさ、自分たちの『贅沢』に使うんじゃなくて、この学校に『場所』を作るのはどうかな」
「場所?」
「うん。ホームセンターで一番いい木材とコルクを買って、重厚な木枠の掲示板を作るの。それを、私たちのアトリエの入り口か、図書室の片隅に設置して、柳先生の名前で寄贈するの」
ひかりは身を乗り出して、楽しそうに続けた。
「この展示が終われば、アトリエは壊される。でも、神木君みたいに『誰にも言えない物語』を抱えてる人は、きっと他にもいる。だから、そういう人たちが、誰にも言えない好きなもの、例えば、好きな本の一節や、匿名で書いた詩を、そっとピンで留めておける場所を作るの。……そこは、誰も笑わない、魂の避難場所」
僕は、息を呑んだ。
僕が飲み込んできた数々の言葉。
ノートの隅に書き殴り、誰に届くこともなく消えていった孤独。
その「行き場のない言葉」に、永続的な居場所を与えるという提案。
「……それなら、柳先生も文句ないんじゃないな。先生が言っていた『投資』の形としては、一番正しい気がする」
「でしょ? 『ここにある言葉を、誰も笑ってはならない』そんなルールも添えてさ。そこは、形式にとらわれない魂たちが、名もなき星みたいに集まる場所になるんだよ」
「名もなき星……、いいね」
二人の間に、共有された秘密の温かさが広がる。
その余韻の中で、ひかりがふと思いついたように言った。
「そうだ、神木君。展示で流す音楽、どうしようか」
「音楽?」
僕の孤独な世界において、音楽とはノイズと同義だった。
思考の静水に波紋を広げる、不要な振動。
「静寂の方がいい思う。あそこは、来場者が自分の心と向き合う場所だから」
「うーん、でも、何かあったほうが雰囲気出ないかなあ」
ひかりはそう言ってスマホを取り出した。
「聴くだけ聴いてみて、例えば、こういうのとか……」
彼女が再生したのは、明るいアコースティック・ギターのインストゥルメンタルだった。
降り注ぐ陽光、揺れる木漏れ陽。
いかにも、常に光を纏っている彼女が選びそうな、優しい、爽やかな旋律。
「やっぱり……違うと思う、よ」
僕は正直に意見を言って、首を横に振った。
「これは、高槻さんの音楽で僕の音楽じゃないよ。僕たちの展示は『たった一人』のためだし、 共通のBGMを流すのは、僕たちの解釈を来場者に押し付けることになるじゃないかな」
我ながら理屈っぽい。
そう思ったが、ひかりは怒ることもなく、きょとんと目を丸くし、やがて得心したように深く頷いた。 「……そっか。そっか、そうだね! 神木君の言う通りだ。音楽はやめよう。来てくれた人が、自分だけの音楽を心の中で鳴らすほうが、ずっといいよね」
彼女はあっさりとBGM案を取り下げた。
これで、この議論は終わった。
けれど、ひかりはスマホの画面を指先で滑らせながら、こう続けた。
「BGMにはしないけど……。わたしが一番好きな曲、聴いてもらってもいい?」
「……う、うん……いいけど」
「ちょっとだけ。聴いてみて」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、スマホを机の中央に置いた。
先ほどの陽気な曲とは似ても似つかない、静かで、ひどくゆっくりとしたピアノの旋律が流れ出した。 それはまるで、薄氷の上を滑るような、滑らかで、けれど底冷えするほどに悲しい音色だった。
優雅で美しく、それでいて、どうしようもなく孤独で諦めに満ちた調べ。
僕が心の周りに築いたガラスの壁を、その冷たい音がそっと撫でていくようだった。
「……ラヴェルの、『亡き王女のためのパヴァーヌ』」
ひかりが、吐息のような声で囁く。
「『亡き王女』、悲しそうなタイトルでしょう」
僕は何も言えず、ただその音楽に耳を傾けていた。
アトリエの空気の色が変わっていくのを感じながら。
「でも、これね」
ひかりは僕の目を見て、穏やかに語りかけた。
「死んじゃった王女様を追悼する曲じゃなくて……、昔、スペインの宮殿にいた小さな王女様の肖像画を見て、作ったんだって。もう誰も覚えていない、遠い昔の姿の、忘れられた…王女様」
「忘れられたって……なんだか、それって……」
ふいに、言葉が途切れた。
彼女の視線が、机の上の一点に吸い込まれるように落ちる。
僕をまっすぐ見つめていた光が、突然、消えたようだった。
「……高槻さん?」
僕は彼女の顔を覗き込む。
ひかりは俯いたまま、動かない。
何かを必死に耐えているような姿勢のままで。
静かなピアノの低音が、重く、ゆっくりとアトリエの床を這っていく。
そのリズムに合わせるように、ぽつり、と机の上に暗い染みができた。
「……」
ひかりは、泣いていた。
声を殺しているのではない。
声を出すことさえ忘れてしまったかのように、ただ大粒の涙だけが、とめどなく彼女の頬を伝っている。
光を反射してこぼれ落ちるその雫は、あまりに透明で、だからこそ彼女の瞳の奥にあるはずの「色」をすべて洗い流してしまったかのように見えた。
僕は、ただ、それを見ていた。
なぜ彼女が泣いているのか、僕にはまったくわからなかった。
思考が停滞し、喉の奥が引き攣れる。
彼女は繊細すぎる。
きっとそうだ。
僕とは住む世界が違う、高い場所の涙なんだ。
そう自分に言い聞かせないと、足元が崩れてしまいそうな恐怖を覚える。
僕のような、泥を這いずる醜い孤独とは違う。
常に光を纏い、他人の痛みに寄り添える彼女だから。
この悲しくも美しい旋律に、僕には届かないような高い場所で、魂を震わせているに違いない。
この涙は、彼女の心の清らかさそのものなんだ。
そう思うことで、僕は勝手に納得し、彼女をまた一つ、僕の届かない聖域へと押し上げていた。
けれど、僕の指先は小刻みに震え、自分の嘘を暴くように止まらない。
「た、高槻さん? どうしたの」
僕は結局、狼狽えたまま、情けない声を絞り出した。
納得したはずの理屈はどこかへ消え、かけるべき言葉が見つからない。
そして、思ってもいない言葉が出た。
「どこか痛い? それとも、僕が何か……」
ひかりは、俯いたまま、ゆっくりと首を横に振った。
彼女の顎の先から、最後の一滴が机に落ちる。
そして、慌てて手の甲で乱暴に涙を拭うと、顔をあげて、いつもの笑顔を無理やりに貼り付けた。 「ご、ごめん! なんでもないの! 本当になんでもない。ちょっと曲が綺麗すぎて、感動しちゃっただけだから!」
彼女はそう言って、慌てて音楽を途中で止めた。
プツリと音が消え、優雅な旋律が、不自然な余韻を残して断ち切られる。
アトリエに戻ってきたのは、僕が愛したはずの静寂ではなかった。
いつもの「眩しい高槻さん」が戻ってきたはずなのに、僕の胸には、拭い去れない重さが澱のように残っている。
感動した、と笑う彼女の横顔を直視できず、僕はただ立ち尽くすことしかできなかった。
次話(36話)は6月リリース予定

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