沈黙のツケと底なしの絶望
「おい、神木、応接室へ来い」
廊下ですれ違うたび、先生は低く、逃げ場のない声をかけてきた。
僕は精一杯の嘘を吐いてはその場を逃げ出した。
今の僕には、自分の中のぐちゃぐちゃな罪悪感を、あの鋭い審美眼を持つ男の前で言語化する勇気なんてなかった。
「……また逃げるのか」
ある日の放課後、裏門へ向かう僕の前に、柳先生が壁のように立ちはだかった。
「先生、しつこいです。僕はもう、放っておいてほしいんです」
僕は顔を上げずに言った。
先生はふんと鼻で笑い、僕の横に並んで歩き出した。
「放っておいてほしい、か。お前が最近授業中に見せているのは、思索にふける者の目ではない。ただ、自意識に足元を掬われて立ち止まっているだけの、無様な敗北者の目だ」
先生の言葉は、まるで僕の心臓を直接素手で掴むような生々しさがあった。
「いいか神木。お前が今やっているのは、単なる沈黙じゃない。向き合うべき現実から目を逸らし、立ち止まることで責任から逃げているだけだ。そんな薄っぺらな態度で、これからの人生、何一つ言葉にできると思うな」
先生は冷徹な視線を僕の横顔に向けた。
「俺は、お前のような奴をかつて知っている。自分の正しさに固執し、伝えるべき時に、伝えるべき一言を喉の奥に飲み込んだ男だ。結果、そいつは生涯をかけても埋められない空白を抱えることになった。……その沈黙のツケを払うのは、他の誰でもない、お前自身だぞ」
僕は立ち止まり、声を荒らげた。
「先生に、僕の何がわかるんですか! 僕はもう、どうすればいいか分からないんです。放っておいてください!」
先生は、怒るでもなく、ただ僕を突き放すように言った。
「謝れとも、やり直せとも言わん。だが、そのぐちゃぐちゃな沈黙にどう『けじめ』をつけるか、それだけは自分で決めろ。神木、お前は現実から逃げ回っているが、お前の根っこにあるはずの、あの執念深いまでの誠実さまで捨てちまったわけじゃないだろう。いいか。近いうちに、お前が嫌でも自分自身と向き合わなきゃならない時が来る。その時までに、せいぜい答えを準備しておけ」
先生は歩き出そうとして、ふと足を止め、振り返らずに付け加えた。
「神木。逃げて、沈黙して、やり過ごした後に残るのは、誰にも読まれない空っぽの白紙だけだ。……お前がまだ、何かを書きたいと願う『表現者』の端くれなら、そのぐちゃぐちゃな醜さごと、言葉にして差し出せ。それが、お前という人間に残された最後の誠実さだ」
先生はそれだけ言うと、今度こそ僕を追い越して校舎の方へ戻っていった。
その残された言葉の重みが、冷たい風とともに僕の体温を奪っていくようだった。
僕は震える手でカバンの持ちてを握りしめた。
先生の言う通りだ。
ひかりが差し出してくれた救いの手を無残に踏みつぶし、その事実からすら、僕は今こうして逃げ出そうとしている。
息をするのさえ苦しい。
暗い泥沼の中で肺がひしゃげていくような感覚のまま、僕は立ち尽くしていた。
「……」
すぐ数メートル先の駐輪スペースの人影に目が止まった。
白石葵だった。
金属の鍵をつまんだまま、彼女が静かにこちらを振り向いた。
保安灯に照らされた今の彼女の横顔は、僕が今まで見たこともないほど、痛々しく強張っていた。
僕と目が合っても、彼女は何も言わなかった。
ただ、あの日僕を射抜いた、僕という人間の核心を憐れむような「奇妙な熱」が、今夜の冷たい空気の中で、より一層鮮明に僕の肌を刺した。
彼女がまとう空気の鋭さに、僕は射すくめられることしかできなかった。
僕はその視線に耐えきれず、逃げるように家路を急いだ。
柳先生は、それ以来、僕に声をかけてくることがなかった。
廊下ですれ違っても、先生は僕に視線を向けることさえせず、ただ無機質な足音を残して通り過ぎていく、その靴音は冷たかった。
「逃げるな」と僕の肩を掴んでくれたあの手の熱さえ、もう、二度と戻ってこない。
突き放された背中を見送るたび、僕は取り返しのつかない致命的な断絶を犯したのだと、体の芯が凍るような恐怖に襲われた。
もはや世界中のどこにも、僕の沈黙を許し、繋ぎ止めてくれる場所など残されてはいなかった。
すべてを奪い、自分をこの行き止まりへと追い込んだのは、他でもない僕自身だった。
僕は、僕自身の沈黙が作り出した暗闇の底で、ただ一人、溺れていくしかなかった。
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