完成した原稿『星祭りの共鳴』の完璧な大団円に対し、ひかりは深い称賛を寄せつつも、救い切れない「ノイズ」や絶望的なすれ違いへの恐れを吐露する。しかし蒼太は、震える彼女の言葉の奥にある真実の陰りに気づかず、それを自らの物語を至高の芸術へと昇華させるための「鋭い感性」として無邪気に誤読してしまう。完璧な共犯関係を信じて疑わない蒼太の独善的な熱狂に反比例するように、二人が見つめる景色の違いは、静かに、そして決定的に広がり始めていた。
鏡の中の不協和音
破局のエピソードを終えた瞬間、僕の背筋を冷たいものが走り抜けた。
ひかりの助言に従って書いたその章には、リクの愛が支配へと変質し、二人の間に修復不可能な亀裂が生まれる様が描かれていた。
リクの口から発せられた「数字は物語じゃない」という言葉や、ヒカリの痛切な「私なんか見てない!」という叫びが、活字を通して僕の耳にも生々しく響く。
まるで、物語が自律的な生命を持ち、僕に不吉な予言を囁いているかのようだった。
重くなった心のまま僕は登校した。
通学路の街路樹の枝には、緑から黄色へと色を変えていく葉が揺れている。
これから訪れる季節を予告しているようだった。
「……嫌な予感だ」
自身の描いた結末があまりに痛切で、現実の僕たちの関係にまで影を落とすのではないかという、漠然とした恐怖が不意に胸に去来する
だが、僕はすぐにその予感を振り払った。
(……違う。これはただの物語だ。僕とひかりの間にある温かい時間こそが真実なんだ)
リクのような独善的な過ちは、今の僕には無関係だ。
僕は彼女を理解し、彼女も僕を肯定してくれている。
そう自分に何度も言い聞かせた。
放課後、気を取り直した僕は、物語のプリントアウトを携えて、アトリエに向かった。
先に来ていたひかりは、作業台に座っていた。
「高槻さん。アドバイス通りに、書いてみよ。……読んでくれる?」
ひかりは「わあ、早いね!」といつものように明るく応じ、原稿を受け取った。
彼女が読み進める間、僕は脚立に登り、壁画の仕上げに取りかかった。
柳先生のカンパで買ったスポットライトのスイッチを入れる。
鋭い光が壁の一点を白く焼き、その周囲に深い、逃げ場のない影を作り出した。
やがて、ページをめくる音が止まった。
「……神木君。このシーン、すごく……苦しいね」
下から響いたひかりの声は、どこか湿り気を帯びていた。
「そうだろう? ルカ(ヒカリ)は『万人の救済』を叫び、リクは『目の前の一人の物語』を守ろうとする。どっちも正しいからこそ、二人は引き裂かれる。高槻さんが教えてくれた『影』を形にしたら、こんなに激しい衝突になったよ。ありがとう」
ひかりは、原稿の中の、ルカ(ヒカリ)がリクを「閉じ込めようとしているだけ!」と糾弾するセリフを、指でなぞっていた。
「……でもね、神木君。このルカちゃん……ちょっと、物分かりが良すぎないかな?」
「え……? 決別しているんだよ? 物分かりが良いどころか、正反対じゃない?」
「ううん、そうじゃなくて」
ひかりは脚立を見上げ、僕をまっすぐに見つめた。
スポットライトの残光が、彼女の瞳を冷たく射抜いている。
「このルカちゃんは、リク君を責めるために、すごく『正しい言葉』を使いすぎている気がするの。……なんだか、都合よく、『最高の悲劇』を完成させるための役割を演じさせられているみたい。……本当の絶望って、こんなにかっこいい言葉にはならないと思う」
「……言葉が、綺麗すぎる、ということ?」
「うん。……本当は、もっとぐちゃぐちゃで、言葉にならないはずだよ」
ひかりは脚立を見上げた。
スポットライトの強い光のせいで、彼女の顔は暗い影に沈んでいて、どんな表情をしているのかよく見えない。
ただ、その瞳だけが、まっすぐに僕を射抜いていた。
「だって、一番近くにいる人に、自分の声が『ノイズ』として処理されちゃうんだよ? 届いてほしい言葉ほど届かなくて、ただ相手の都合のいい『綺麗な飾り』に変えられていくの。……それは、悲鳴をあげることさえできないくらい、もっと静かで、冷たい絶望じゃないかな」
心臓の奥が、冷たく、かすかにざわついた。
僕とひかりの関係は完璧だ。
彼女は僕の最高の理解者で、僕たちは今、誰も到達できない領域で響き合っている。
それなのに、なぜか彼女のその言葉が、物語の枠を越えて僕自身の輪郭を冷たく削り取っていくような、奇妙な錯覚を覚えた。
執筆直後に感じた、あの根拠のない「嫌な予感」が、一瞬だけ胸の暗がりに首をもたげる。
だが、僕はすぐにそのざわつきを振り払った。
そんなわけがない。
彼女はただ、僕の書いた世界にそれほど深く入り込んで、ルカ(ヒカリ)の痛みを自分のことのように感じてくれているのだ。
これこそが、僕たちが求めていた真の共鳴の証じゃないか。
「なるほど……『静かな絶望』か。さすがだな、高槻さん」
僕は脚立の上で、自分の微かな動揺を追い出すように、努めて明るい声を絞り出した。
「叫ばせるよりも、声を失うほどの沈黙の方が、かえって痛々しさが際立つ。素晴らしい着眼点だよ。そこはもっと冷たく、息が詰まるような描写に修正してみる。ただ――この『羅針盤が砕ける』という象徴的なシーンだけは、絶対に外したくないんだ。これは、読む人の心を抉るフックとして、一番効果的な『形式』だからね」
「……形式、か」
ひかりは何かを言おうとして、小さく、震えるように唇を動かした。
――ギィッ、ギチッ。
僕が脚立の上で、誇らしげにライトの角度を調整する冷たい金属音。
その無機質なきしみ音が、彼女の微かな呼気を完全にかき消した。
僕は、彼女がライトの眩しさに耐えかねるように、ふいと目を逸らしたことに気づいていた。
”大丈夫。
この『影』を乗り越えて展示を完成させたとき、本当の光が見えるはずだ。
君が教えてくれた『影』のおかげで、この物語は傑作になる”
僕は心の中で確信していた。
彼女の抱く違和感さえも、僕が物語の力で「感動」へと翻訳してあげられるのだと。
高く、光に近い場所にいる僕には、すべてが見えている。
だが、僕の足元で、僕の出す金属音にひかりが自分の両耳を、あの物語のヒカリと同じように強く、強く塞いでいることに、気づかないふりをした。
次話(35話 亡き王女のためのパヴァーヌ)へリンクする
<ひかりの助言をうけ、蒼太は決別のエピソードを書き直そうとするが思うように進まない、そして、展示で流す曲の話から、ひかりの好きな曲を一緒に聞くが、そのとき、ひかりは…>

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