鎖の音と砕け散った羅針盤
星祭りの奇跡から数ヶ月。
リクとヒカリがたどり着いたのは、深い霧に包まれた巨大な港町だった。
そこ周りの街からあらゆる物が集まり、機械的に処理されていく、消費の終着駅だった。
街の中央にそびえ立つ管理塔。
その最上階、冷たい灰色の雨が窓を叩く部屋には、街中の廃棄物をリアルタイムで集計する巨大な「統計台(スコア・モニター)」が鎮座していた。
モニターには、無機質な数字が猛烈な勢いで更新されている。
【廃棄物処理数:2,405/分】
「……リクくん、もう、耐えられない」
ヒカリは管理塔の窓辺で、耳を強く塞ぎ、青ざめた顔でうずくまっていた。
窓の下では、一秒間に何百もの思い出が「無価値」と判定されて粉砕機に回されている。
完全に破壊される瞬間の凄まじい断末魔は、触れずとも塔の最上階まで届き、ヒカリの過敏な「耳」を容赦なく破壊しにきていた。
「見て……この数字の一つひとつに、本当は名前があって、愛した人がいたはずなのに。リクくん、お願い……映写機をこの統計台に繋いで!」
ヒカリは統計台を指差し、涙を流しながら叫んだ。
「ここには街中の『絶望』のデータが集まってる。映写機の出力を最大にして、この数字の羅列を一気に光の物語として空に解き放つの! そうすれば、この街の人たち全員に、自分たちが何を殺しているのか一瞬で分からせることができる。一気に、みんなを救えるわ!」
それは、膨大な悲鳴を聞き続け、心が摩耗してしまったヒカリなりの、必死の「全体の救済」だった。一人ひとりに寄り添っていては、その間に何万もの命が消えていく。
その焦燥が、彼女を「全体の救済」へと駆り立てていた。
しかし、リクは手元の古い銀時計を磨く手を止めなかった。
彼の目は、手元のスケッチブックと銀時計だけに釘付けになり、トランス状態のような静かな熱を帯びている。
「……ヒカリちゃん。数字は物語じゃない」
リクの声は、霧よりも冷たく響いた。
「それはただの『記録』だ。一気に全員を映し出すなんて、それはただの光の塊をぶつけるのと同じだ。誰の顔も、誰の指先の震えも見えなくなる。そんなものは……救いじゃない」
「何言ってるの!? 目の前で数万人が溺れているのに、リクくんは足元の時計一つを磨き続けるっていうの!? そんなの、救済なんかじゃない。ただの、リクくんの『こだわり』よ!」
「僕は、目の前にあるこの『一つの光』を大切にしたい。見過ごされ、踏みにじられようとしているこの時計の孤独を、最後まで描き切りたい。それが僕の、映写機の使命だ」
二人の正しさは、ここで真っ二つに割れた。
個の美しさに陶酔し、完璧な一篇を紡ごうとする表現者のエゴ。
それに対し、現実の濁流の中で今まさに消え去ろうとするすべての命を救おうとする切実な叫び。
重なり合うはずだった二人の歩みは、埋めようのない断絶へと向かって加速していく。
「もう少しだよ、ヒカリちゃん。この時計の持ち主だった老人が、最後に止めた時間の記憶が……」
リクの指先が、銀時計の錆びた表面を愛おしそうになぞる。
――その瞬間だった。 『ゴホッ、ゴホッ……あぁ、冷えるな……』
ヒカリの脳髄に、見知らぬ老人の血を吐くような咳払いが、強制的に鼓膜の裏側から直接響き渡った。あの星空の夜から、リクが触れたモノの物語は、ヒカリの耳に逃れられない「音」として流れ込んでくる。
外からの暴虐な粉砕音の濁流に、リクが内側から無自覚に注ぎ込む「濃密な個人の死の記憶」。
それはヒカリの精神を完全に引き裂く、致死量の猛毒だった。
「やめて……!」
ヒカリは床を掻きむしり、叫んだ。
「お願い、触らないで! リクくんがそれに触るたびに、頭の中が割れそうになるの!」
しかし、リクは聖者のような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべてヒカリに近づいた。
そして、あろうことか、彼女が必死に耳を塞いでいるその両手に自分の手を重ね、優しく、しかし確かな力で引き剥がそうとしたのだ。
「ノイズから耳を塞いじゃいけないよ。僕が今、この時計の痛みを完璧に翻訳する。この美しい物語が完成すれば、君のその痛みもきっと……」
ヒカリの息が止まった。
目の前の少年は、自分が流している血に、まったく気づいていない。
リクの目には、ヒカリの現実の苦痛など見えていなかった。
そこにあるのは「傷ついた少女を、自分の紡ぐ物語の力で救う」という、彼自身の脳内にある完璧で美しいシナリオだけだった。
「……やめてっ!」
ヒカリは、リクの手を激しく振り払った。
「いい加減にして! 死んだ人の綺麗な思い出なんて、今の私にはどうでもいい! 痛いの! 苦しいの! どうして目の前で私がこんなに泣いてるのに、リクくんは平気な顔でノートを開いていられるの!?」
リクは弾かれたように顔を上げた。
そこにいたのは、庇護を求める「疲れた少女」ではなく、絶望に震える一人の人間だった。
「ヒカリちゃん? 何を言って……僕は君を救うために……」
「嘘つき!」
ヒカリの喉から、血を吐くような悲鳴が上がった。
「リクくんは私なんか見てない! 見てるのは、私を助けようとしてる『優しい自分』と、そのノートの中の綺麗な絵だけじゃない!」
ヒカリの瞳から溢れ出した大粒の涙が、冷徹な床に落ちて砕ける。
彼女は、あの日リクが自分の首にかけてくれた、あかがね色の羅針盤を震える手でむしり取った。
かつて「二人で見失わない」と信じたはずのその針は、もうどこも指していない。
「リクくんのコンパスは……結局、自分しか指していない」
ヒカリはそれを、かつて信じた温かな記憶ごと、冷徹な床へと力任せに叩きつけた。
――パリンッ! 悲鳴のような音を立てて、羅針盤のガラスが砕け散る。 砕けた破片は、リクが放つ映写機の光を、残酷なまでに美しく、無数に跳ね返していた。
「私たちは、もう、一緒にいられない」
彼女は、リクから明確に一歩下がった。
「さよなら。……リクくんは、その完璧な部屋で、永遠に一人で描いていればいいわ」
扉が乱暴に開かれ、バタンと重く冷たい音を立てて閉ざされた。
廊下から流れ込んだ隙間風が、二人の間にあった温かな空気の残滓をすっかり奪い去っていく。
世界から「ヒカリ」が消えた。
リクは、ゆっくりと手元のスケッチブックに目を落とした。
そこには、彼が彼女を犠牲にしてまで完成させようとした、完璧な物語の続きが待っているはずだった。
だが――その無機質な白いページを見た瞬間、リクの頭を覆っていた熱狂が、氷水を浴びたようにスッと引いていった。
足元で鈍く光る、砕け散った羅針盤の破片。
『リクくんのコンパスは、結局……自分しか指していない』
「……っ!」
我に返ったリクは、スケッチブックを床に投げ出し、弾かれたように扉へと駆け出した。
管理塔の階段を転がるように駆け下り、重い鉄の扉を押し開ける。
外は、肌を刺すような冷たい氷雨が、視界を白く染め上げるほど激しく打ちつけていた。
「ヒカリちゃん! 待って、ヒカリちゃん!」
泥水に足を取られながら、巨大な廃棄物の山をかき分け、リクは血相を変えて走り出した。
「ごめん、僕が間違ってた! 頼むから、どこにも行かないでくれ……っ!」
喉が裂けるほど叫び続ける。
だが、無情な粉砕機の轟音と激しい雨の音だけが、彼の悲痛な声を虚しく掻き消していく。
どれだけ探しても、どれだけ叫んでも、あの小さな背中はどこにもなかった。
自分のエゴが生み出した「完璧な物語」と引き換えに、リクはたった一つの本当の光を、冷たい雨の降る灰色の街で、完全に見失ってしまったのだった。
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<リクとヒカリの決別を描いた蒼太は嫌な予感を感じつつも、その予感を振り払い、ひかりに読ませる>

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