届かない愛と最後で唯一の誠実さ
柳先生に突き放されたあの日から、世界は光をすべて吸収する暗闇のようだった。
先生の「逃げるな」という手の熱も、僕を射抜くような鋭い視線も、もう二度と僕には向けられない。導き手さえ失い、僕は文字通り、剥き出しの孤独の中に放り出された。
そして僕の世界に、終わりのない夜が訪れた。
学校には通った。
だが、僕の魂はそこになかった。
教室で、ひかりの姿を見る。
彼女は完璧な「太陽の仮面」を貼り付け、友人たちと笑い合っている。
僕の存在など、初めからなかったかのように。
僕もまた、彼女の存在を感じないフリをした。
僕たちの間にあったあの奇跡のような時間は、すべて僕が見た儚い夢だったのだ。
砕け散ったガラスの破片は、もはや僕の外側を守る壁ですらなかった。
それは僕の内側から突き出す無数の刃となり、僕が呼吸をするたびに、僕の肺をずたずたに引き裂いた。
夜、家に帰っても、何もする気が起きなかった。
毎朝欠かさなかったランニングもやめた。
何のために走り、誰のために強くなるのか。
その目的を失った僕の肉体は、重たい鉛を詰めたように動かなくなった。
僕はベッドに沈み込み、天井のシミを数えて、ただ過ぎゆく時間を腐らせていた。
そんな無為な日々が、十日、あるいは二週間。
学校は冬休みに入ったが、魂の抜けた僕にとって、どこにいても世界は同じ灰色に塗りつぶされていた。
そんなある日の夜、ひかりの夢を見た。
そこは、僕自身がかつて描いたあの物語の舞台、冷たい氷雨が降る巨大な港町だった。
絶え間なく鳴り響く粉砕機の轟音と、すべてを覆い隠す深い霧。
泥水にまみれた廃棄物の山の向こうに、ひかりの後ろ姿があった。
彼女は、足場も定まらないスクラップの斜面を、すべてを噛み砕く粉砕機の暗い奈落のほうへと向かって歩いている。
「そっちはダメだ!」
僕は必死に泥を掻き分け、その背中を追って駆け出した。
「危ない! そっちに行くな!」
絶叫しようとするが、喉が張り付いて声が出ない。
いや、仮に声が出たとしても、鼓膜を劈く暴力的な轟音の前では、僕の悲鳴などちっぽけなノイズにすぎなかっただろう。
僕が創造し、そして無責任に投げ出したこの残酷な世界が、彼女を飲み込もうとしている。
どれだけ腕を伸ばしても、泥に足を取られて距離は一向に縮まらない。
彼女は一度も振り返ることなく、灰色の雨の中へと消え、見えなくなった。
立ち尽くす僕の足元には、叩き割られた羅針盤の破片だけが、冷たく散らばっていた。
そこで目が覚めた。
全身に張り付いた冷や汗と、激しい動悸がまだ消えない。
枕元の時計は、暴れる心臓の音を嘲笑うかのように、冷たく深夜の時刻を指していた。
荒い呼吸を整え、ふと見上げれば、窓の外――初冬の澄み渡った夜空に、あまりに無機質な満月が昇っていた。
どのくらいの時間、呆然とその月を見ていたのだろうか。
あの日、僕は彼女を「太陽」だと決めつけ、その眩しさに目を背けて逃げ出した。
けれど、今僕を照らしているこの静かな光。
太陽の光ではなく、この月の光こそが、ひかりが呼んで欲しかった本当の名前だったのだと、僕は今さら気づかされる。
それは自ら燃え盛る熱ではなく、誰かの暗闇を静かに照らし、その輪郭を浮かび上がらせるための光。
『君の仮面の下の、本当の名を知っている』と走ったあの日、僕は何もわかっていなかった。
あの時の僕には最初から、彼女と話し合う資格などなかったのだ。
月の光は、夜の空に浮かぶ雲を白く縁取っていた。
強い上空の風に煽られ、雲はすごい速さで、どこかへ流されていく。
絶え間なく姿を変え、加速して消えていくその流れは、僕が取り残された時間の速さのようで、僕は立ち尽くすことしかできなかった。
季節が少しずつ変わって、冬になっていたことを、肌を刺す空気の冷たさで知った。
突然の空腹を感じて、ひとり近所のコンビニに向かった。
僕は無造作に手に取った菓子パンと牛乳をレジに持っていった。
その時は、店内に流れる音楽は、ずっと僕の耳には届いていなかった。
ただの騒音の一部。
だが、曲と曲の間に訪れた一瞬の沈黙の後、次の旋律が始まった。
ピアノの旋律。
優雅で、なめらかで、しかし底冷えするほど悲しい調べが、僕の麻痺した耳の奥に直接響いた。
僕の手が止まる。
それは、あのアトリエの静かな時間、ひかりが僕に「好きな曲だ」と言って流した、あの旋律だった。
――亡き王女のためのパヴァーヌ
目の前に三つの光景が、同時にフラッシュバックした。
あのアトリエの机に落ちた一滴の涙。
「忘れられた王女様……忘れられたって……なんだか、それって……」と言って途切れた彼女の声。
手紙を開いたとき、そこにあった「私の壊れそうな心を助けてください」という切実な言葉。
そして、あの悪夢の中の港町――粉砕機の奈落へと向かって歩いていく、 小さな後ろ姿。
亡き王女。
それは、僕が「太陽」という役割を押し付け、助けを拒絶したせいで、誰にも見てもらえずに死んでいった高槻ひかりの魂、そのものだった。
僕は菓子パンと牛乳を置き去りにして、レジから逃げ出した。
息を切らしながら家に辿り着き、自室のドアを開ける。
目に入ったのは、本棚の一番下に放置された一つの小包だった。
ひかりの誕生日に渡すつもりで買った、あの本。
『はてしない物語』
僕はその小包をゆっくりと取り上げた。
この渡せなかった愛の重みこそが、僕が犯した罪の証明だ。
ひとに愛されないことではなく、真の孤独とは、愛する人を愛せないことだ。
この本は、僕の届かなかった愛の残骸だった。
僕は床に座り込み、両手で頭を抱えた。
『亡き王女のためのパヴァーヌ』、そして『はてしない物語』
もう、僕は何をどうすればいいのか、わからない。
僕のこの手は薄汚れている。
そして、僕のこの愛は、もうどこにも届かない。
どれだけの時間、そうして呻いていただろう。
ふと視界の隅に、ノートパソコンの黒い画面が映った。
心の底に沈んでいた記憶が浮かび上がってきた。
それは、僕がまだ書き終えていない物語の結末だった。
リクとヒカリの物語。
孤独を賭けて愛を試みようとした、あの不器用な主人公の最後の姿。
僕はゆっくりと体を起こした。
そして、まるで夢遊病者のようにパソコンの前に座り、電源を入れる。
真っ白な画面が立ち上がる。
点滅するカーソルが、僕に問いかけているようだった。
「お前は、このまま終わるのか」と。
僕は、ひかりに拒絶されたのではない。
僕が彼女の救いを求める手を、拒絶したのだ。
現実に、僕は最も大切な時に臆病になり、自尊心に溺れて、彼女を孤独の牢獄に置き去りにした。
だが、リクはどうなのだ。
僕が生み出した、あの臆病で、しかし誠実な魂は。
このまま絶望の中で物語を終えていいのか。
現実の僕は希望を裏切った。
せめて物語の世界で、リクという魂だけは誠実にその物語を完結させなければならない。
「物語を終わらせる責任を果たせ」
いつかLibが僕に言った言葉が蘇る。
覚悟を決め、物語の編集画面を開いた。
無意識のうちに、Libの言葉を探していた。
だが、あの決別の物語に、Libのコメントはなかった。
意外なほどの静寂が、僕を射抜く。
胸の奥が、冷たい風が吹き抜けたように空洞になる。
先生に続き、Libにまで見捨てられたのか。
その事実が突きつける耐え難い寂寥感。
しかし同時に、僕はもう誰の評価も気にしなくていいのだという、ぞっとするような安堵を覚えた。
僕は震える指先を、キーボードに置いた。
これは彼女への最後の償いであり、物語の神に対する責任の完遂だ。
そして、僕の逃げ道を断った、柳先生への僕なりの答えだ。
先生が言った「誠実さ」とは、綺麗に生きることでも、誰かに許されることでもない。
たとえ泥を啜り、吐き気に苛まれても、自分が始めた物語に、自分なりの言葉でけじめをつけること。どれだけ無様でも、一つの物語として書き切ること。
それが、僕という人間が自分自身に示せる、最後で唯一の誠実さなのだ。
僕が現実に果たせなかった誠実さを、物語の中で、せめてリクの魂に託さなければならない。
僕はひかりへの想いも、自分の痛みも、すべてをこの物語の中に封じ込めるように、最後の一行まで書き切ることを決意した。
それは痛みを伴う作業だった。
僕が紡ぐ一文字一文字が、僕自身の失われた未来をなぞり、僕の心を抉っていく。
誰に読まれるかも、どう評価されるかも、今の僕にはどうでもよかった。
ただ、この物語を完結させるという義務だけが、僕をこの世界に繋ぎ止めていた
リクは、ヒカリへの想いが叶わぬものであることを悟る。
彼は自分が決して彼女の側には立てないことを受け入れる。
だが、彼は絶望しない。
彼はヒカリと出会えたことで手に入れた光と痛みのすべてを胸に抱き、彼女の幸せを願いながら、自らは新しい旅へと一人で出発することを選ぶ。
それはリクの覚悟を描いた、そしてどこまでも悲しい、けじめの物語だった。
夜が明ける頃、僕は最後の一文を打ち終えた。
涙がキーボードの上に落ちて、小さなシミを作った。
僕はその完成した物語を、何の推敲もせずサイトにアップロードした。
そして、まるで墓標を立てるかのように、その記事にこう名付けた。
『リクのスケッチブック:最終章・きみに贈る光の行方』
僕はブラウザを閉じた。
僕の物語は、すべて終わったのだ。
僕は深い、深い眠りに落ちていった。
何も感じない、何も夢も見ない、完全な虚無の眠りだった。
数日が過ぎた。
僕は以前と同じ抜け殻の日常を送っていた。
だが、一つだけ違っていた。
僕の心の中のあの鋭い痛みは消えていた。
すべてを出し尽くした僕の内側には、風が吹き抜けるような、静かな空洞だけが広がっていた。
もう、何も失うものはない。
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