『リクのスケッチブック「最終章・きみに贈る光の行方」』
リクは床に座り込んだ。
彼は、ただ自分の孤独を埋めてほしかったのだ。
自分のガラスの部屋を破ってくれた唯一の光に、自分だけのものになってほしかった。
それがなぜ、「愛」ではないというのか。
リクは、自身の『スケッチブック』を開いた。
そこには、この倉庫の隅で見つけた老人の腕時計の「孤独な光」の記録が、克明に描き込まれていた。
「たった一つの孤独を救うことの方が、ずっと重要だ」
リクは、そう信じていた。
その時、彼の脳裏に、あの「ガラクタの谷」に向かう前、二人に「第三の道」を指し示した、あのアトリエの発明家の言葉が響いた。
「そちらの若者の『目』に見えているのは、魂が惹かれる方角だけを指し示す『孤独なコンパス』だ。そして、嬢ちゃんの『耳』に聞こえているのは、万人のための温かい『地図』なのだ」
リクはハッとした。
リクはスケッチブックを閉じた。
自分の足元を見つめる。
そこに描かれていたのは、狂ったように同じ場所を指し示し続けたコンパスの針の軌跡だった。
「自分は……」
喉から乾いた声が漏れた。
ガラスの部屋で孤独に膝を抱えていたはずの自分は、いつの間にか、あの眩しい光を放つヒカリという存在を、自分の小さな一点に縛り付けようとしていたのではないか。
彼女の笑顔の裏にある脆さを守りたいなどと言いながら、実際には、自分の孤独を埋めるための都合のいい光として彼女を消費していただけだった。
それは愛などではない。
彼女の自由を奪い、その輝きを踏みにじる、最も醜いノイズだ。
気づいた瞬間、吐き気がした。
自分の傲慢さが恐ろしくて、リクは両手で顔を覆った。
だが、どれほど後悔しても、一度歪めてしまった関係は戻らない。
彼女の孤独を守るために、自分にできる唯一のことは――。
リクは痛みを抱えながら、震える声で呟いた。
「……ここから、去り、ヒカリちゃんの前に二度と現れない」
だが、決意したからといって、すぐに足が動くわけではなかった。
その後の数日間、リクは自分が立てた「去って、もう会わない」という決断の重さに、押し潰されそうになっていた。
倉庫の闇の中、彼は膝を抱え、ただ息をするだけの時間を過ごした。
ヒカリがいなくなったあとの部屋は、かつて自分が愛した「ガラスの部屋」ではなく、ただの無機質な箱に過ぎなかった。
何かを描こうとスケッチブックを開いては、手が震えて鉛筆を落とし、暗闇の中で自分自身を呪うように呻いた。
なぜ自分はあんなにも傲慢だったのか。
ヒカリの声が、彼女の痛みが、耳を塞いでも脳裏にフラッシュバックする。
彼女を傷つけた自分の手、彼女の顔を歪ませた自分の言葉、砕け散った羅針盤の破片の音。
それらが何百回、何千回と再生され、リクの精神を少しずつ摩耗させていく。
食べ物も喉を通らず、ただ寒さに震え、時折、絞り出すような低い声が倉庫に響いた。
それは、自分という殻を脱ぎ捨てようとする、魂の軋む音だった。
鏡を見れば、そこにいるのは、何者かになろうとして失敗した一人の子供だった。
この数日間、リクは「ヒカリを失う」という罰を、全身全霊で味わいつくしていた。
そうしなければ、自分が犯した罪の大きさを測ることさえできない気がしたからだ。
やがて、その呻きは絶望ではなく、ある種の「覚悟」へと変わった。
このままここで消えるだけでは、本当に彼女を傷つけたまま終わってしまう。
たとえ届かなくとも、言葉にしなければならない。
自分が何を見失い、何を愛していたのか。
それを言葉という形にしてこの場所に残すことが、自分自身への唯一のけじめであり、唯一の救済であると悟ったとき、リクは数日ぶりに立ち上がった。
『スケッチブック』の最後のページを破り、彼は「最初で最後の手紙」を書き記した。
だが、宛先はない。
自分へのけじめとして書いた手紙だった。
ヒカリに届けるあてのない手紙だった。
ペンを置き、視線を彷徨わせたとき、一つの記憶が閃光のように蘇る。
あの図書館、科学史の書架。
ヒカリが「共鳴の証」としてペーパーナイフを挟んだ、あの一冊の古びた本。
あそこなら、いつか彼女が答えを求めて戻ってきた時、見つけてくれるかもしれない。
リクは手紙を胸にしまい、雨の街を飛び出した。
辿り着いたのは、街に古くからある、あの図書館だった。
重い扉を押し開けると、あの夜と同じ冷たい空気が彼を迎える。
リクは迷わず、人目のない一番奥の科学史の棚へと向かった。
そこには、あの日のまま、古びた革表紙の一冊が静かに眠っていた。
『共鳴の文法(グラマー) ―― 忘れられた光と音の翻訳法』
本を手に取ると、ページの間から青銅色の柄が覗いている。
ガラクタの谷で見つけた、あのペーパーナイフだ。
『もし、これから先、私たちが道に迷って、お互いの声が届かなくなるようなことがあっても……この栞が挟んであるページを開けば、きっとまた、この真実の場所に戻って来られる気がする』
あの日、祈るように本を閉じた彼女の声が、静寂のなかで鮮やかに蘇る。
リクは、老人の手記が途絶えたその最後のページを静かに開いた。
そして、胸にしまっていた手紙を取り出す。
ヒカリちゃんへ。
羅針盤が床に落ちて割れた時の音を、今も思い出してる。
君がすごく辛くて耳を塞いでいた時、僕は自分のことしか考えていなかった。
君の痛みを、僕の物語で癒せると本気で思っていた。君は正しかった。
僕のコンパスは、どこへ行っても自分しか指していなかった。
君が一人で守ろうとしていた光を、僕は自分の都合のいいように見ていた。君と離れて、ようやくわかった。
僕は、君を心から愛していた、その気持ちに嘘はない。
君が僕にしてくれたこと。
一つずつ思い出して、心のなかで、君の名を呼び、ありがとうって言っている。
今さらだけど。君がそばにいることが当たり前だと思っていた。
ガラスの部屋にいた頃の僕は、ただ膝を抱えて座っていただけだったのに。
君は僕と一緒に歩いてくれて、ずっと僕の心を温めてくれていた。
それなのに僕は、その温かさに甘えていただけだった。この想いが君に届くことはない。
それが一番苦しい。
でも、この苦しみは僕が自分でずっと背負うべきものだとわかっている。だから、僕はひとりで行くよ。
君を傷つけた自分の身勝手さを、ここに置いていく。
もし、いつか僕が君の地図を汚さない人間になれたら……その時、また会えたらいいなと願ってる。
いつか、明ける夜を迎えにいく。本当にごめんなさい。
そして、ひかりちゃんを僕は愛していました。リク
彼女が残したペーパーナイフの隣に、リクは手紙を挟んで本を閉じ、棚に戻した。
すぐに届かなくてもいい。
いや、届かなくてもいい。
もし、届いてくれたなら。
それは、明日でなくても、来年でも、10年、いや30年後であってもかまわない。
ただ、いつか彼女がこの本を手に取り、真実を知ろうとした時、この最後の『願い』が彼女の目に触れることだけを祈って。
リクは一人、夜明けの雨上がりの街を旅立つ。
彼の手には、もう「映写機」も、彼女への執着もない。
ただ、新しくなった『リクのスケッチブック』だけが、唯一の荷物だった。
リクは、再び「孤独」になった。
だが、その孤独はもはや「息の詰まる静寂」ではない。
リクの「特別な目」は、雨上がりの遠い路地の奥に、また一つ見過ごされた「か細い光」を捉えていた。
リクのスケッチブック(おわり)
次話(47話)は9月リリース予定(9月更新をもって完結)

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