文化祭の日、自らの想いが独善だと悟った蒼太は、二人で創った『星空』を壊し、ひかりとの関係を断ち切る。以降、互いを避ける冷え切った日々の中、ひかりは涙の滲む手紙を残すが、傷つくことを恐れた蒼太は読まずに捨ててしまった。
すれ違いざまの彼女からの「半歩の拒絶」に抉られ、孤独に引きこもる蒼太。しかしある日、ひかりが二人の「掲示板」を残すために一人で戦っていた事実を知る。掲示板に留められたひかりの「月の光」と「祈り」の言葉を目にした蒼太は、自らの愚かさを恥じ、手紙を捨ててしまったことを激しく後悔するのだった――。
仮面の告白
教室で顔を合わせても、互いに目を逸らし、言葉を交わすことはない。
彼女は再び太陽の世界の住人に戻り、僕はガラスケースの内側から、ただその光景を眺めるだけの影に戻った。
僕の「愛の試み」は、失敗に終わったのだ。
そしてその無様な残骸だけが、僕の胸に冷たく突き刺さっていた。
図書室の掲示板に彼女が残した「月の光」の祈りを知ってから、数日が経っていた。
彼女が僕を守ろうとしていたことは分かった。
けれど、その「正しさ」に打ちのめされるほど、僕たちの距離は絶望的に思えた。
そんな灰色の放課後のことだった。
帰り支度をしていた僕の元に、クラスメイトがやってきた。
「神木、柳先生が応接室で呼んでるぞ」
応接室。
重い足取りで扉をノックする。
「入れ」
中には柳先生が一人だけで、ソファに腰掛けていた。
「まあ、座りたまえ」
先生は僕に向かいのソファを勧めると、テーブルの上に置かれていた二冊の冊子を、僕の前に滑らせた。
一冊は、僕の詩が掲載されたあの同人誌。
そしてもう一冊は、見覚えのある春にあった校内文芸コンテストの入賞作品集『若葉』だった。
テーマは「わたしの自画像」。
「君の詩も素晴らしかったが」
先生は僕の同人誌の隣で、『若葉』のあるページを開いた。
「この詩も、私は同じくらい心を打たれてね。同じ今年の入賞作だ。神木は読んでいないと思うがね」
そう、僕は冊子が配布されたその日に、自分の詩すら見ずに捨てていた。
そこに印刷されていたのは、匿名の一つの詩だった。
タイトルは、『仮面』
僕はその活字を目で追った。
読み進めるうちに、僕の呼吸が浅くなっていくのがわかった。
朝、鏡の前で、わたしは、わたしになる。
太陽の光で編んだ、仮面をかぶる。
大丈夫だよ、と、世界より先に、笑うために。暗がりに怯えていた小さなわたしに、お母さんが言った。
「あなたの笑顔はとても素敵、その笑顔が、あなたを守ってくれる」
「笑顔でいれば、ひとりぼっちにならないわ」「教室」というステージの上で、わたしは、道化のように、踊り続ける。
孤独という素顔を、隠すために。
僕の頭の中に、いつもクラスの中心で完璧な笑顔を振りまいている、ひかりの姿が浮かんだ。
でも、知っている。
このわたしの強すぎる光が、どこかで深い影を落とすことを。
あなたの静かなこころを破って、その瞳を焼いてしまうことを、わたしは、知っている。
お願い。
この仮面を力ずくでは剥がさないで。
もし、できるなら。
この光の仮面をつけたままのわたしに。
その奥にいる臆病なわたしに。
わたしの耳元に。
わたしの本当の名を囁いて。
そっと。
僕は詩から顔を上げることができなかった。
間違いない。
これは、高槻ひかりの詩だ。
「……気づいたようだな」
先生の声が、静かに、しかし冷徹に響いた。
「彼女もまた、君と同じ孤独という名の形式を、光という名の形式で上書きして生きてきた人間だ。……神木。彼女はその『太陽の光』を維持するために、どれほどの血を流していたと思うね?」
僕は何も言い返せなかった。
先生はソファに深く背を預け、天井の一点を見つめるような目をした。
「……昔、私もね。この詩によく似た言葉を、ある人から受け取ったことがある」
不意に漏れた先生の独白。
その声は、かつてカフェで聞いた時よりもずっと掠れていて、脆かった。
「だが当時の私は、自分の内側の空虚さを見破られるのが怖くて、彼女を『完璧なもの』として扱い続けた。彼女が助けを求めていたことに気づかないふりをして、笑顔のままでいさせ続けたんだ。その結果、彼女は本当の笑顔を失い、私の前から消えた」
先生は視線を僕に戻した。
その瞳にはいつもの皮肉な光はなく、ただ深い、澱んだ悔恨だけが横たわっていた。
「孤独を守るために相手を見捨てるのは、愛の試みですらない、ただの自慰だ。……お前は、私と同じ『冬の夜』を過ごしたいのか? それとも、その凍りついた形式を、今すぐ壊しに行くのか?」
僕は何も言わず立ち上がった。
先生はそれ以上何も言わなかった。
僕は応接室の重い扉を閉め、冷たい廊下に一人立ち尽くしていた。
手の中には、柳先生から渡されたあのコピー。
ひかりの『仮面』という詩。
(……気づかなかった。いや、気づかないふりをしていたんだ)
僕が自分の影を守ることに必死だった間、彼女は自分の光という呪いに焼かれながら、僕を呼び続けていた。
柳先生の「それは自慰だ」という言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さったままだ。
けれど、僕の足は動かなかった。
一ヶ月。
僕たちが「存在しないもの」として互いを透明にしてから、あまりに長い時間が経ちすぎている。
あの日、彼女が差し出した最後の手紙さえ、僕は中身も見ずにゴミ箱に投げ捨てたのだ。
(今さら、どの面を下げて会いに行けばいい? 僕が彼女の本当の名を呼んだところで、それはまた僕の独善ではないのか……?)
自尊心と後悔が、コンクリートのように僕の足を地面に縫い付けていた。
もう遅すぎる、という諦念が、一番安全な逃げ道として僕を誘う。
その時だった。
「……神木」
不意に名前を呼ばれ、僕は弾かれたように顔を上げた。
下駄箱の影に立っていたのは、大和だった。
僕は咄嗟に身構えた。
今の僕が最も会いたくない「正解」の形をした男。
だが、彼の表情には敵意も嘲笑もなかった。
そこにあったのは、ただ必死に何かを堪えるような、痛々しいまでの真剣さがあった。
「応接室入るの見かけたから、待ってたんだよ」
「お前さ……ひかりに、何かしたのか?」
「文化祭の後から、あいつ全然笑わなくなったんだよ。いや、笑う。笑うけど、今までと違うんだ。俺らがバカなこと言っても、上の空で……。なんかずっと、無理して笑ってるみたいでさ」
大和の声が、僕の脳内でひかりの詩と重なり、火花を散らす。
「文化祭の最終日。あいつ寝坊したって言ってたろ? あれ、嘘なんだぜ。前日の夜、あいつ一人でファミレスにいてさ、お前たちの展示の宣伝ポスターを遅くまで作ってたんだよ。朝、俺たちと一緒にそれを校内に貼って回ったんだ。……あいつ、お前には絶対言わないでくれって言ってたけどさ」
僕は息を吸い込むことすら忘れた。
文化祭の二日目、大和たちに連れ去られる直前のひかりの姿が、鮮明に脳裏をよぎる。
もっと多くの人にこの場所を届けたいと口にした彼女の切実な声。
気のない返事をした僕の言葉を確かめるように、彼女が一度だけ見せた小さく、強い頷き。
ひかりは、僕が宣伝のポスターを貼ることを嫌がると思っていたから、黙っていたんだ。
あの日、僕が「裏切られた」と被害者面をして閉じこもっていた朝、彼女は僕らの『星空』を世界に繋ぎ止めていたのだ。
そしてその数日後、あの最後の手紙を僕に持ってきた。
拒絶され、傷つき、それでもなお振り絞った彼女の最後の命のような言葉を、僕は消しゴムのカスの中に捨てた。
「正直、俺、ひかりのこといいなって、ずっと思っててさ。文化祭の後、あいつ元気ないから、なんかできないかと思って、俺と付き合ってくれって言ったんだよ、真面目にさ。でも、断られた。俺じゃダメなんだってさ。理由はわからないけど……あいつが笑ってたの、お前と図書室で何か作ってる時だったじゃないか」
大和が僕の肩を強く叩いた。
その熱が、僕の凍りついた足を無理やり溶かした。
「だから、さ……ちゃんと、ひかりのこと見てやれよ」
大和が去っていく背中を、僕はもう見ていなかった。
迷いは消えた。
いや、迷っている暇なんて、一秒も残っていなかった。
「遅すぎる」なんていうのは、僕が僕自身を許して楽になりたいための言い訳に過ぎない。
肺が焼けるように熱い。
今まで孤独という冷たい酸素で生きてきた僕にとって、現実に踏み出すための呼吸はあまりに苦しかった。
けれど、この痛みこそが、彼女に触れるために必要な代償だ。
僕は、走り出していた。
謝るためじゃない。
許してもらうためでもない。
もし彼女が今この瞬間も、あの孤独な太陽の仮面の下で息を殺して泣いているのなら。
僕らの創ったあの場所を、一人で必死に守り続けてくれていたのなら。
僕は行かなければならない。
その仮面を無理やり剥がすのではなく、ただその奥にいる臆病な少女の耳元で、君の本当の名前を知っているのだと、喉を潰してでも叫ぶために。
肺が痛む。
足がもつれる。
それでも僕は、夕焼けに染まる校庭を、ひかりのいるはずの場所へと、ただ不格好に走り続けていた。
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<走り出した蒼太はひかりの瞳の前に立つ…>

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